パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

Category: 福島生協病院の歴史(第1部)   Tags: ---

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歴史に学び 病院の新しい未来を(13)

竣工間もない福島病院


待ち望んだ病院が完成

100メートル道路の北側、福島川を埋め立てた土地を広島市から借り受け、病院が建設されます。1959年1月5日に着工され、5月5日には竣工式を迎えました。建坪630平方メートル、木造モルタル平屋建て、鉄板葺き一棟。内科、外科、レントゲン室があり、43室、22ベッドの病院です。町民の出資550万円と広島市からの補助150万円、合計700万円で建設費をまかないました。

みんなの願いを実現した建設運動でしたが、問題点もありました。町の有力者の協力をえて市有地を借りること、建設資金を集めることに成功したものの、地域住民、なによりも組合員のなかに医療の受け手としての自覚が育たなかったのです。

また、建設委員会は病院建設後の運営について、生協理事会を解散し、新たに病院運営委員会をつくって病院を運営することを提案。生協立を「町立」へ転換しようというのです。論議のすえ、建設委員会を解散し、経営は生協理事会がすることになりました。「生協は組合員の手によって自主的な運営をする」という原則に対する理解が十分でなく、その原則を貫けなかったことが問題の要因です。

次の総会(1960年)まで、建設委員会から常任顧問、常任相談役を選出し、生協の常任理事会・理事会への出席を認めるという変則的な運営をすることで妥協がはかられました。

「医療生協とは何か」を問いながら

「産みの苦しみ」を経てつくられた福島生協病院にさらなる困難が立ちはだかります。それは経営上の苦しみです。診療所時代も経営の見通しが十分でなかったのに、病院になれば経営規模は格段に大きくなります。部落での医療活動の困難さに加えて慢性的な赤字に見舞われました。

こうした困難を打ち破るために、1965年頃から理事会を中心に生協理念の学習が始められます。医療生協とは、班会とは、組合員・出資金とは、など原点に帰った討議がすすめられました。

日生協医療部会(いまの医療福祉生協連)からは「医療生協は運動体であり事業体である。健康づくりを主体とした病院である。組合員を増やし組合員が運営の中心に座らなければいけない。一地区にこだわらず広島市全体を視野に入れた活動を考えたらどうか」という厳しい指摘がありました。


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ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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