パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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Category: 福島生協病院の歴史(第1部)   Tags: ---

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歴史に学び 病院の新しい未来を(5)


3.福島の町を変えてゆく(1)

問題山積の福島町を変えてゆく

原爆で焦土と化した広島。復興への取り組みが市内中心部から始まる一方で、福島町は、差別と貧困による生活環境の悪化と原爆による健康被害が広がっていました(田阪正利編『部落問題と原爆の町』)。町には日中からぶらぶらする若者の姿が目立ち、博打、覚醒剤、アルコール依存や、長欠児童など、問題ばかりが山積し、復興どころではなかったといいます。

しかし、そんな福島町が変わってゆきます。なぜ変わったのか? それは、①トラホーム治療運動、②わかくさ子供会の発足と活動、③太田川改修闘争という3つの取り組み、運動があったからです。そして、これらの積み重ねが、無医地区であった福島町に診療所をつくり、福島生協病院を生み出していく土台となりました。

一つずつみてゆきましょう。

①トラホーム治療の再開

戦前のトラホーム治療運動が、1949年に再開されます。土屋厳郎医師の協力をふたたび得ながら無料での治療を始めました。対市交渉で薬剤などを市にださせることに成功。受診者数は901名(うち患者748名)、患者延人員は635名で、一日平均100名の患者を治療しました(ふくしま文庫編『地域民主主義を問いつづけて』)。

この運動を主として担ったのは青年と女性です。戦前のトラホーム治療運動のなかで青年たちは診療所建設の夢を語り合い、戦後を迎えました。女性たちは、この運動のこまごまとした世話を縁の下の力持ちとなって働きました。

1951年から年2回の治療が実施され、52年に治療薬テラマイシンができるとトラホームは激減しました。

わかくさ子供会

②わかくさ子供会の発足

トラホーム治療運動を担った青年たちは、子どもたちに目を向けていきます。「町には不就学・長欠の子どもがあふれており、食べることで精一杯の親たちからは、子どもは放りっぱなしでした」(中西はるゑさんの講演、前掲『地域民主主義…』)。

そんな子どもたちをなんとかしたい。1950年、わかくさ子供会がスタートします。初めは学校の補習を中心とした運営でしたがは子どもたちに不評。30人いた参加者はあっというまに10人まで減少します。そこで子どもたちに「何をやりたいか」を尋ね、引き出した答えは「珠算・音楽・童話」でした。子どもたちの要求はさらに広がり、習字・図画・レクレーション・町内清掃・文化祭・ハイキングなど、多彩な活動に取り組むようになります。

わかくさ子供会に関わった人は1000人を超え、地域の運動や広島中央保健生協の担い手を生み出していったのです。

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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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