パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

Category: 福島生協病院の歴史(第1部)   Tags: ---

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歴史に学び 病院の新しい未来を(3)

金崎原爆02
「炎の中を逃げる人々」
【金崎是(かねざきすなお)】1916年、広島市福島町に生まれる。金崎さんは福島診療所建設に尽力された方です。

2.原爆に苦しめられて(2)

ペチャンコになった町

わたしはピカのとき、屠場(とば・牛を屠殺するところ)で働いていました。ガラスの破片で頭や手足にケガをしました。頭の傷から血が流れるのでフンドシを頭に巻きつけ、ペチャンコになった我が家から家内がはい出してきて、3人の子どもが遊びにいっているから、探してくれといったので、ペチャンコになった町を、あっちこっちと探しました。3人の子どもは結局、現在でいえば大田川放水路下の草むらに町の者と一緒に避難していました。3人とも顔だけヤケドをしていました。それは福島川(注・今はない)で泳いでいたからで、ピカの時、顔だけ水の上にだしていたためでした。

必死に生きてきたのに

子どもたちと家内をかかえ、とにかく喰っていかなければならないので、自分のできることはなんでもやりました。闇もやった。牛の密殺もやりました。そして3人の子どもたちはそれぞれ一人前になった。まあ、これで自分の役目も終わったんだと思いました。ところが胃ガンの疑いがあるということで手術を受けてからは、もう仕事どころか毎日病院通いが今の生活です。

原爆の被害と部落差別

いつか「被爆者の会」の人から、こんな話を聞かされました。福島町の者は原爆の被害をより一層強く受けているということだった。それは町が未解放部落であるからだということでもあった。いわれてみるとほんとうにそうです。他の町の者とは結婚が出来ない。仕事も他の町にない食肉や製靴、それに土方人夫やゲタ、靴の修繕、たまに他の町に勤めても、なにかと差別をされ、一月もたたぬうちに、辞めてしまうというありさまで、考えてみれば腹の立つことばかりでした。
 
「あまりつきあわん方がいい」

わたしは18歳のとき、吉島町にあった広島製紙工場の原料であるワラを船から荷揚げする人夫になって働いていました。日当1円20銭(大正7,8年頃)は、わたしにとっては、かなりの魅力でした。米1升が20銭でしたから、親に半分渡し、半分は自分で使った。60銭あれば活動写真もみられた。酒も呑めた。女も買えた。まったく何もいうことがないように思えた。

ところが、「あいつは福島の者だから、あんまりつきあわんほうがええで」と陰口を言う者がおり、腹が立ちその陰口を言ったやつと大喧嘩をし、相手をコテンパンにやっつけたが、工場側は理由を聞かず「明日から来なくててもよい」と言い、クビになった。差別をした奴はクビにならず、差別をされた者はクビになる。まったく酷い話ではないか。

(佐和田政一さんの手記から一部を抜粋。福島地区被爆者の会『壁』第3集)




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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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