パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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Category: 福島生協病院の歴史(第1部)   Tags: ---

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歴史に学び 病院の新しい未来を(2)

2.原爆に苦しめられて(1)

原爆に焼かれて

1945年8月6日8時15分、原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。

爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。

原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめることにあります。

爆心から1.5キロメートルから2.7キロメートルの地点にある福島町でも、家屋の大半が爆風によって全壊し、放射された高温の熱線によって火災が起こりました。

広島の西の出口にあたる福島町を通って多くの人が避難してゆき、死者や負傷者であふれました。

金崎原爆01
「焼け焦げたボロボロの体で火の中を逃げ惑う」
【金崎是(かねざきすなお)】1916年、広島市福島町に生まれる。
金崎さんは福島診療所建設に尽力された方です。



生き地獄だった

菊広忠夫さんの手記を紹介しましょう。

私は当時、家のあった福島町2丁目で被爆しましたが、兄嫁とおいの嫁のめいも近所の事務所で被爆しました。私が記憶しているのは、ピカッと光ったあと、妙蓮寺という寺のブロックの塀の上に自分が立っていたということです。どうして自分がブロックの上に立っているのか、またピカッと光った後からそれまではすっかり空白状態で思い出せません。でも目の前に大きな寺がぺっちゃんこになっているのを見て本能的に、このままここにいたら死んでしまうと感じました。そこで私の母親をつれだして兄と3名でまずこの町の旭神社に避難しました。

原爆投下8時15分の後わずかして雨が降り出したことを覚えています。その黒っぽい雨に当時何も知らなかった人びとの間で、米軍がガソリンを空からまいたという噂がありました。私たちは己斐方面に避難しようと焼け家を通り過ぎるうちにも、皮膚がめくれて焼けただれている人やあの原爆のヤケド特有のダラリと両手をたれてそのまま死んでいく人に30人ぐらい会いました。

母の目が見えなくなり己斐で避難していましたが、私は残りの家族が気にかかったので旭橋を通って引き返しましたが、その日は堤防の下に野宿しました。兄は胸、両手足にやけどをしたぐらいでしたが、おいとめいは隣保館()の下敷きになっていました。私も真っ黒な雨にぬれて4日ぐらい下痢をしましたが、畑の青くて固いトマトをかじったのがよかったのかもしれません。2日目からむすびと乾パンの配給がありましたが、傷をしていても薬もないし、全く生き地獄でした。
いまの「いきいきプラザ」

(福島地区被爆者の会『壁』第3集)





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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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