パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

Category: 福島生協病院の歴史(第1部)   Tags: ---

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歴史に学び 病院の新しい未来を(1)

はじめに

広島中央保健生協は今年(2015年)創立60周年を迎え、福島生協病院は今秋、新病院がオープン予定です。この節目の年に、あらためて生協と病院の原点を確認しようということで、福島生協病院・職員ニュース「元気予報」に14回にわたって「歴史に学び 病院の新しい未来を」を掲載しました。

『広島中央保健生協50年誌』(広島中央保健生協、2010年)を基礎としていますが、以下の文献も活用させていただきました。職員向けニュースであり、読みやすさを考え、引用符なしで本文のなかに織り込んでいます。ご了解下さい。

ふくしま文庫編『地域民主主義を問いつづけて』部落問題研究所、1992年
田坂正利編『部落問題と原爆の町』部落問題研究所、2000年
石田寿美恵『麦飯花 白衣の半世紀』日生協医療部会、1992年
『民医連綱領・規約・歴史のはなし〈2005年改訂版〉』全日本民医連
『無差別・平等の医療をめざして』全日本民医連、2012年

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1.差別と貧困 戦前の福島地域

被差別部落だった福島町

福島生協病院の建つ福島町はかつて被差別部落でした。武士、町民、農民の身分が厳しく分かれていた江戸時代。最下層に「人間外の人間」の身分がつくられ、部落ができます。明治時代になり「賤民解放令」が出されましたが、現実には結婚や就職などの差別が根強く残り、厳しい暮らしを強いられました。

厳しい差別と劣悪な環境のなかで生きる部落の人びと。大正時代になると自主的な解放運動が始まります。1922年、部落民たちは全国水平社を結成。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とだれもが人間らしく生きる世の中をつくるために「全国に散在する我が特殊部落民よ団結せよ」と呼びかけました。翌年には広島県水平社大会が開かれ、県本部が福島町に置かれました。

水平社宣言(一部)
 我々が「エタ」である事を誇り得る時が来たのだ。
 我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ=おくびょうなこと。おじおそれること)なる行為によつて、祖先を辱(はずか)しめ人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何んであるかをよく知つている吾々(われわれ)は、心から人世の熱と光を願求礼讃(がんぐらいさん=願い求め、ほめたたえること)するものである。   
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。

 

昭和に入り、軍国主義が広がっていきます。検挙されたり非合法の活動を強いられながらも差別と貧困からの解放のための活動は続けられました。

病気を治そうと思えば食えない

福島町は1932年から敗戦を迎える1945年までの13年間、無医町でした。大正末期から昭和にかけてトラホーム(伝染性の慢性結膜炎)患者が増え、1921年には5人の医師が、28~30年には青木静仁医師、34年~40年、土屋厳郎医師が福島町で治療に当たりました。土屋医師は「自分の一生のうちで、一番燃えたのはあの雪の舞い込む診療室だった」といいます。

「(病院行くとなっても)貧しいから服を整えることができない、入院するにしても、まず布団をどうしようかということになる。もっとも問題なのは、入院したら仕事を休まねばいけない。そうすると金が入らない、メシが食えない……。病気を治そうと思えば食っていけなくなるという、生活の問題にすぐつながるわけです」(土屋医師)

6年にわたり無料で治療がなされました。この治療を通じて、人びとは日頃から身の回りを清潔にし、みずからの健康を守るくらしのあり方を学んでいきました。
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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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