パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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フォイエルバッハ論(14) 体験的・古典の修行

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四、科学的社会主義とは--自然科学の発展を踏まえて(1)

●ヘーゲル学派の真の発展としてのマルクス

 111ページは、いままでのまとめです。

「フォイエルバッハだけが哲学者として重要であった」が、「哲学者として中途半端であって、下半身は唯物論者、上半身は観念論者であった」



下半身は唯物論というのは、物質が精神の産物ではなく、精神が物質の最高の産物であるという見地(79ページ)。上半身は観念論者というのは、社会や人間についての見方が観念論の域を出られなかった、ということであり、前回検討しました。総論としては唯物論にたどりついたフォイエルバッハでしたが、ヘーゲルの積極的な側面を読み取ることができず、その行き着いた先は、「愛」と「道徳」でした。フォイエルバッハと違う方向に、ヘーゲルを生かした唯物論が登場します。抽象的な言葉を弄(もてあそ)ぶのではなく、現実的世界をありのままにとらえようとすることです。それをなしとげたのはカール・マルクスでした。

「現実的世界--自然と歴史--を、あらかじめ観念論的な思いこみをもつことなしに接近するどの人間にもあるがままの姿でとらえよう、ということであり、諸現実を幻想的連関ではなく、それ自身の固有の連関においてとらえたとき、諸事実と一致しえないいかなる観念論的な思いこみも容赦なく犠牲にしようということである。これ以上のことを、唯物論は一般になにも意味しない」(113ページ。訳文を一部変更)



●あるがままの姿でとらえる「決心」

 『古典への招待』(下巻293ページ、新日本出版社)で、「現実の世界、すなわち自然と歴史を、『あるがままの姿で』とらえる『決心』をすること、自然と歴史に対して、頭のなかで考えられた『連関』を外からもちこもうとする気まぐれをいっさい拒否すること、それが唯物論だ--エンゲルスのこの指摘は、あらゆる観念論に対する決別の言葉であり……大変味わい深い名言だと思います」と不破哲三さんが解説しています。

ビギナーズ版では、「決意」(entsclossen)という言葉は出てきません。それぞれ、「現れるままの形態でとらえよう」「容赦なく犠牲にしよう」と内容に即して訳されています。しかし、その文意のなかに不破さんが述べたような「決意」が込められているのでしょう。

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ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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