パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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フォイエルバッハ論(9) 体験的・古典の修行

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●哲学の変革の原動力

哲学の進歩は何によってもたらされたのでしょう。

「彼ら(哲学者)が信じるのとは異なり、純粋な思考の力にのみ駆り立てられてきたわけではない」(77ページ)



先ほども述べたようにそれは自然科学と産業の発展によるのだ、とエンゲルスは言います。唯物論の立場の人びとにとってそれは自明のことです。

では、観念論の立場の人はどうか。科学と産業の発展によって「ますます唯物論的内容に満たされるようになり」ます。精神が根源だといっても、まさか念力で物はつくれません。残るのは「根性主義」ぐらいです。

そこで、精神と物質の対立を汎神論(はんしんろん)的に和解させようとしたのです。汎神論とは、一切は神であり、世界と神は一体のものだと主張します。精神は物質であり物質は精神である。あらゆる物質のなかに精神(神、ヘーゲルの場合は絶対理念)とかが宿っているというのです。

ですから、観念論の頂点に立つヘーゲル体系は、「方法と内容からして観念論的に逆立ちされた唯物論」(77ページ)とエンゲルスは評価します。観念論を追究すればするほど、その中身は現実を反映した唯物論的なものになっていくのです。

●フォイエルバッハの果たした役割と限界

 「フォイエルバッハの発展過程は……ヘーゲル主義者が行き着く過程」(78ページ)です。ヘーゲルの「逆立ちされた唯物論」は、フォイエルバッハによって次のような「洞察に到達」します。

「ヘーゲルの『絶対理念』の先世界的存在、世界がいまだ存在せぬ段階での『論理的カテゴリーの先存在』とは、世界外に存在する創造主に対する信仰の幻想的遺物にほかならないこと、また、われわれ自身が属している、感性的世界に知覚可能な物質的世界こそ、唯一現実的なものであり、われわれ自身の意識と思考は、それがどんなに超感性的であるようにみえても、ある物質的身体器官の、つまり脳髄の産物であること」(78ページ)

「物質は、精神の産物ではなく、かえって精神のこそ、それ自体が物質の最高の産物に最高の産物にほかならない」(79ページ)



フォイエルバッハは内容としては「唯物論」を、上記のように主張しつつも、「唯物論」だと主張することができませんでした。それは、18世紀に「巡回説教」して説いた「俗流唯物論」と、自らが到達した「唯物論」をごちゃまぜに考えていたからです。

しかし、観念論がそうであったように、唯物論もまた「発展の新しい軌道が開かれ」たのです。18世紀の唯物論には、二つの弱点がありました。 第一に機械的であったこと、第二に、自然においても人間がつくる歴史においても世界を発展的にとらえることができなかったことです。



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●哲学の変革の原動力

哲学の進歩は何によってもたらされたのでしょう。

「彼ら(哲学者)が信じるのとは異なり、純粋な思考の力にのみ駆り立てられてきたわけではない」(77ページ)



先ほど(8)も述べたようにそれは自然科学と産業の発展によるのだ、とエンゲルスは言います。唯物論の立場の人びとにとってそれは自明のことです。

では、観念論の立場の人はどうか。科学と産業の発展によって「ますます唯物論的内容に満たされるようになり」ます。精神が根源だといっても、まさか念力で物はつくれません。残るのは「根性主義」ぐらいです。

そこで、精神と物質の対立を汎神論(はんしんろん)的に和解させようとしたのです。汎神論とは、一切は神であり、世界と神は一体のものだと主張します。精神は物質であり物質は精神である。あらゆる物質のなかに精神(神、ヘーゲルの場合は絶対理念)とかが宿っているというのです。

ですから、観念論の頂点に立つヘーゲル体系は、「方法と内容からして観念論的に逆立ちされた唯物論」(77ページ)とエンゲルスは評価します。観念論を追究すればするほど、その中身は現実を反映した唯物論的なものになっていくのです。

●フォイエルバッハの果たした役割と限界

 「フォイエルバッハの発展過程は……ヘーゲル主義者が行き着く過程」(78ページ)です。ヘーゲルの「逆立ちされた唯物論」は、フォイエルバッハによって次のような「洞察に到達」します。

 「ヘーゲルの『絶対理念』の先世界的存在、世界がいまだ存在せぬ段階での『論理的カテゴリーの先存在』とは、世界外に存在する創造主に対する信仰の幻想的遺物にほかならないこと、また、われわれ自身が属している、感性的世界に知覚可能な物質的世界こそ、唯一現実的なものであり、われわれ自身の意識と思考は、それがどんなに超感性的であるようにみえても、ある物質的身体器官の、つまり脳髄の産物であること」(78ページ)

 「物質は、精神の産物ではなく、かえって精神のこそ、それ自体が物質の最高の産物に最高の産物にほかならない」(79ページ)



フォイエルバッハは内容としては「唯物論」を、上記のように主張しつつも、「唯物論」だと主張することができませんでした。それは、18世紀に「巡回説教」して説いた「俗流唯物論」と、自らが到達した「唯物論」をごちゃまぜに考えていたからです。

しかし、観念論がそうであったように、唯物論もまた「発展の新しい軌道が開かれたのです。

18世紀の唯物論には、二つの弱点がありました。第一に機械的であったこと、第二に、自然においても人間がつくる歴史においても世界を発展的にとらえることができなかったことです。

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ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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