パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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フォイエルバッハ論(5) 体験的・古典の修行

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●「実体」か「自己意識」か

ここで「福音書著者」というのが出てきます(正教会などでは福音書書記と呼んでいるようです)。 キリスト教の『新約聖書』に収められている四つの正典「福音書」の「記者」のことで、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四人を指します。「福音書の奇跡」とは、イエスが水の上を歩いたとか、病気を治した、死者を甦らせたといった奇跡の数々のことです。シュトラウスは、「福音書」は人類の理想を、初期キリスト教団がイエスという人間に即してつくり出した神話が聖書だというのです。

当時は、この考え自体が危険思想とされ、シュトウラウスは一生、大学の教職に就くことができませんでした。

次に出てくるのが、ブルーノ・バウアーで、福音書そのものが4人それぞれの創作だとします。バウアーは、イエスの神聖はもちろん、その歴史的存在も否定し、聖書は苦悩する民衆の文学作品だといいます。バウアーもまたボン大学を追われ、大学教師の座に就くことができなくなりました。

「二人の論争は、『実体』と『自己意識』との闘争という哲学的扮装」(64ページ)として展開されました。

シュトラウスは「実体」(事実上の神)を絶対的なものとし、バウアーは、福音書が「福音書記者」によって創作されたものならば、「自己意識(自覚)」の方が重要だということです。だから「世界史における決定的な作用力となるのは『実体』かそれとも『自己意識』なのか」という複雑怪奇な論争になっていくのです。

そうならざるをえなかったのは、先ほども述べたキリスト教の絶対的な力でした。だから、シュトラウスも、バウアーも(そしてシュテルナーも)、神の存在を抽象的にしか批判できず、聖書解釈、キリスト教の解釈としてしか提起できませんでした。
このように、キリスト教、ヘーゲル哲学、現実の国家・政治がどのように関連しているのかを明らかにすることが求められていたのです。シュトラウスからシュテルナーまでのヘーゲル学派は、「実体」か「自己意識」かなどの抽象的な論争を乗り越えるときがきました。

 「唯物論は自然を唯一現実的なものととらえるのに対し、ヘーゲルの体系では自然は絶対理念の『外化』を表すにすぎず、いわば理念の堕落した形態である」(65-66ページ)。


根源的なものは「自然」なのか、「理念」なのか。それが問題であり、この問題を明らかにしたのが、フォイエルバッハだったのです。

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ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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