パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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空想から科学へ(8) 体験的・古典の修行

●自然科学から哲学へと移された「形而上学」的な見方

「形而上学者はものごとをもっぱら媒介のない対立のなかでのみ考える。肯定と否定とは絶対に排除しあう。原因も結果も同様にこわばって動きのとれない相互対立をなしている」(65ページ)


 「あれはあれ、これはこれ」と峻別してしまう。はじめはそれでもいいのですが、自然科学がさらに発展すると、割り切れない問題がでてくるのです。

エンゲルスも例にだしていますが「生」と「死」という正反対に思われることも、じっくり考えると、そう簡単ではない。どこからが「生」なのか、どこからが「死」なのか?生命は生きながら、死へ向かっている「過程」としてとらえる必要がある。マルかバツかでは片付かないんですね。

 「どの生物体も、各瞬間に同一のものであってまた同一のものでない」(67ページ)


私たちのからだも新陳代謝をつねに行い、からだの一部はつねに新しいものに入れ替わっているのです。
ある一定の期間を経ると、すっかり別物になっているのですが、それでも同じ人間ですよよね。二見伸吾は二見伸吾のまま。違っていて同じ。

 「肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時にたがいに分離することのできないものであり、まったく対立しているにもかかわらず、相互に浸透しあっていることがわかる」(67ページ)



●ドイツ古典哲学 ヘーゲルの「弁証法」

「形而上学」的な見方は、自然科学の発展の途上で生まれ、あるところまで自然科学と二人三脚で進んできたのですが、自然科学のさらなる発展は「形而上学的な」見方と相容れなくなります。

「自然は永遠に一様な、たえず繰りかえされる循環運動をしているのではなくて、ほんとうの歴史を経過している」(68ページ)。自然史という言い方がありますが、まさにそれ。地球も歴史があり、大地も動けば、地も裂ける。「動かざること山のごとし」というけれど、山も長い歴史のなかでは動くんですね。生物も同じく,長い歴史のなかで進化してきました。人間はまさに歴史をつくる生き物です。

「自然的・歴史的・精神的世界の全体」を「ひとつの過程」として、すなわち、「不断の運動・変化・転形・発展のうちにあるものとして把握」し、叙述しようとすること。人類の歴史を、人類の発展過程としてとらえ、この過程がいろいろなわき道をとおりながらもしだいに段階を追ってすすんでいったあとをたどり、「あらゆる外見上をつらぬくこの発展過程の内的合法則性」をみつけだすこと。エンゲルスは「この課題を提起したこと」がヘーゲルの画期的な功績だといっています。

しかし,ヘーゲルの体系は「巨大な流産」でした。

ヘーゲルは一方で,「人類の歴史はひとつの発展過程」だととらえていましたが,他方では,そういう考え方,体系が「絶対的な真理」だと主張してしまったからです。つねに発展途上にあるのならば,「もうこれ以上明らかにすることはない」という「絶対的真理」にはたどり着かないのです。つねに次がある。

エンゲルスは言います。

「外的世界全体の体系的認識が世代から世代へと巨大な前進をとげうるということを,けっして排除するのではなく,むしろ反対にそれを含んでいる」(73ページ)



「素朴な弁証法」は形而上学的な見方に乗り越えられ,それが自然科学の発展と「ドイツ古典哲学」,とりわけヘーゲルによって乗り越えられたわけです。

 そしていまや,ヘーゲルの弁証法も乗り越えられるときが来た。それは何か?

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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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