パンとともにバラを

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独立の日なんてとんでもない。従属の日です。

安倍晋三首相は3月7日の衆院予算委員会で、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し日本が独立を回復したことを記念し、今年4月28日に政府主催の式典開催を検討していることを表明しました。

しかし、51年の9月4日にサンフランシスコ講和条約と同日、こっそりと結ばれた日米安保条約によって、独立は形式的なものとなり、発効した4月28日は新たなかたちを変えた従属・屈辱の日となったのです。

以下、拙著『ジョーカー安保』(2010年、かもがわブックレット)から該当部分を抜き出して紹介したい(平和条約と講和条約は同じものです)。 



 1951年秋に調印された「サンフランシスコ平和条約」と「日米安全保障条約」は、日本を形式的に独立させつつも、実質的にはアメリカに日本を従属させるものでした。

 サンフランシスコ講和会議の受諾演説も、そういう本質にふさわしく屈辱的なものだったようです。吉田茂首相は主席全権として講和会議に出席し、受諾演説を読み上げます。吉田は英語でやるつもりでしたが、日本語でやるように指示されました。『回想十年』には次のように書いています。

 三千人以上の聴衆の中で、日本語の判るものが何人いるだろう?……誠に張合(はりあ)いがない。原稿読みに全体で20分もかかった。よほど、途中で原稿を飛ばしてしまおうかとも思ったが、結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けたのである。
(吉田茂『回想十年』第3巻、新潮社、47ページ)

 「嫌々我慢しながら」読んだ本当の理由はほかにあります。演説内容がアメリカによって書き換えられたのです。こちらの方がよほど屈辱だったでしょう。アメリカ代表団の顧問でGHQの外交部長だったシーボルトがつぎのように事情を述べています。

 首相の個人的な秘書の松居明が私のところへ、演説草案の英文の写しを持ってきて、それを読んで、何か直したいところがあればいってくれないか、と頼んできた。誰が書いたか知らないが、とにかくそれはよくなかった。……この演説の調子と題目を変更するために、なんとかしなければならなかった。……必要なところには手を加え、聞き手を怒らせそうなところは削り、全体として言葉を洗練したものに変え、どうやらいい演説といえるところまで仕上げ、さらに吉田の発言に威厳を持たせるような調子に直した。
 (W・J・シーボルト『日本占領外交の回想』毎日新聞社、241ページ)
 
 すべてはアメリカの筋書きどおりにすすめられたのです。サンフランシスコ平和条約は、1951年9月8日、日本を含め49カ国が署名。しかし、この講和会議には、日本がもっとも長期にわたって戦争をし、もっとも多くの被害を与えた中国は招かれていないのです。朝鮮(大韓民国)も日本との間で交戦関係になかったという理由で招請されず、インドとビルマは参加を拒否。ソ連、チェコ、ポーランドは調印を拒否しました。

 サンフランシスコ平和条約が結ばれた日の午後5時、日米安保条約が調印されます。会場はサンフランシスコ湾に面する米第六軍司令部でした。

 ごく一握りの人しかこの安保条約を結ぶことを知らなかったのです。「この条約は、約8か月間、内密に交渉を続け、その原文は、この式典の始まるわずか2時間前に新聞に発表」されました(『日本占領外交の回想』243ページ)。日本人が知ったのは締結されてからなんですね。
 
 合衆国側署名者はアチソン長官・ダレス特使・ワイリーおよびヴァイリッジス両上院議員の四人であった。わが方では吉田総理一人署名した。池田・星野・一万田の三全権代理が列席した。苫米地・徳川両全権は姿をみせなかった。(西村熊雄『サンフランシスコ平和条約』日本外交史27、鹿島研究所出版会、305ページ)

 日本の全権は主席の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党最高委員長)、星島二郎(自由党常任総務)、徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)、一万田尚登(日銀総裁)という6人だったのですが、吉田首相一人しか署名していません。しかも2人は参加すらしていない※。

※欠席した苫米地はその著書『平和の灯』(和耕会)でつぎのように述べています。「安保条約の締結は、サンフランシスコ平和条約締結のさい、時の首相吉田氏が一人で取決められたものである。全権の一人として渡米したわたくしにも相談があったけれども、わたくしはこれを断った。その理由は事前審議もなく、出先で簡単に決められる性質のものではない。ましてこの条約は不平等条約だ」吉岡吉典『「日米同盟」と日本国憲法』105ページより重引。

 西村熊雄はその事情を「安全保障条約と平和条約と同じ土地で数時間後に調印されることとなったことに日本全権団の多くはある種の失望感を抱いた」と説明していますが、場所と時間だけでなく、その内容にも失望していたのだ、と私は思います。

 なにしろ、日本国民は、安保条約を結ぶことを知らされていない。

 サンフランシスコ講和会議は100人におよぶ各国代表団と3000人を超す聴衆のなかで開かれたのに対して、安保条約は陰でこそこそと結ばれたのです。

 「憲法を押しつけられた」という人びとは、けっして「安保は押しつけられた」と言いません。こんなにひどい状況で結ばされたにもかかわらず、不思議なことです。

 安保条約は、サンフランシスコ平和条約第6条a項に基づいてます。

第6条【占領終了】 (a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退しなければならない。但(ただ)し、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若(も)しくは締結される二国間若(も)しくは多数国間の協定に基づく、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とんまたは駐留を妨げるものではない。

 前半を読むと、アメリカ占領軍は日本から90日以内に撤退することになっています。平和条約を結ぶということは戦争状態を終結することですから、当然、軍隊は出ていくのです。
 しかし、それを「但し」以降ですべてひっくり返す。そのままアメリカ軍が残れるようにしたのです。なんという欺瞞(ぎまん)的なやり方でしょう。


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ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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