パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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ギャンブル依存症500万人以上 なのに、なぜカジノ?

ギャンブル依存は精神疾患

昨年8月、厚労省・研究班は500万人以上がギャンブル依存症の疑いがあると発表しました。成人の約5%にあたり、男性が約400万人(8.7%)、女性が約100万人(1.8%)。福岡県民(509万人)と同じだけギャンブル依存症がいることになります。世界のほとんどの国が1%ほどなのに比べ異常な多さです。

日本には約1万2千軒のパチンコ店があり、パチンコやパチスロなどに接しやすいことが原因だといわれています。

作家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんは「(ギャンブル依存症は)ウソと借金を重ね、家族を崩壊させる。判断能力を失い、犯罪へと走る」といいます。

ギャンブルにのめり込むのは本人の問題だと思われがちですが、れっきとした精神疾患(正式名称は「病的賭博」)です。幻覚や手の震えといった離脱症状はアルコール依存が1週間程度に対し、ギャンブル障害は1~2ヶ月もかかり、治療薬もありません。

カジノをつくってどうするの?

ギャンブル依存症への対策をたてることが求められていますが、安倍政権は対策を講じるどころか、カジノ合法化に向けてまっしぐらです。安倍政権は、カジノ解禁を成長戦略の柱と位置づけており、2020年の東京五輪までにカジノ施設を開業させたい。そのためにカジノ法案を自民、維新、次世代の3党で衆院に議員立法として提出し、会期内の成立をめざしています。

賭博はれっきとした犯罪行為(刑法185条)です。暴力団も絡み、さまざまな犯罪の温床になります。ギャンブル依存症や家庭崩壊も今以上に広がることでしょう。カジノで潤う企業は一握りです。誰かが儲ければ、誰かが損をするのがギャンブル。経済成長に役立つはずもありません。

(広島中央保健生協 憲法を学ぶ大運動 推進ニュース「憲法診断」№51より)



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(蛭子能収さん)

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歴史に学び 病院の新しい未来を(11)

小さな総合診療所(2)

全日本民医連の結成と加盟

福島診療所ができる2年前、1953年6月に22県117院所が加盟する全日本民主医療機関連合会が結成されました。全日本民医連が結成されたことは、働く人びと、患者の立場につねに立とうとする医療機関の全国組織が確立したことを意味します。民医連運動は、医師をはじめ、医療従事者の主体的な医療変革の運動と住民・患者の運動を結びつけることが原点です。会長に選出された須田朱八郎さんは「全国民医連」誌第1号で次のように述べました。

「私達は、新しい医療活動の型を創造しているのだと私は確信しております。病める肺、病める腎臓だけを診るのではなくて病める患部を、その患者、患者の生活全体として診ること、医師、看護婦、事務、診療所全体の力が患者とその家族、否、もっと多くの同じように生活〔苦〕とたたかっている人達と合わせ、その合作した力で一人の患者を治療し、健康と、健康が支えられる生活を守ろうとしているのです。大衆のなかから生まれ出て大衆の中で育ち、発展してきた私達、全国の民主的病院、診療所のあり方は、こういうものだと思います」

福島診療所は民医連の掲げる医療のあり方、運動、精神に賛同し、1957年9月に加盟しました。

民医連第3回大会
(民医連第3回大会)

アルコール依存症とのたたかい

貧しさや差別によっていじけ、自暴自棄になった人たちが診療所を訪れます。自分も人も信じることができない。寂しさと甘えを酒と暴言、暴行によって紛らわす日々を送る人たち。

「この人たちの苦しみを分からなければならない」
「このような状況を生みだす社会を変えねばならない」

そう自らを叱咤するものの、眼前の患者は受診の順番は待たず、気に入らないと手をあげ、機材をひっくり返すといった狼藉(ろうぜき)をくり返します。

「〝大切な、大切な患者さん〟という気持をどうしたら持ちつづけることができるじゃろうか」
「一つぐらい、わがままの言える診療所があってもええじゃないか」
「いや、けじめを持たせるように患者にもっと厳しく指導せんと」
「よりよい医療はどうしたら実現するのだろうか」

職員は悩み、身も心も疲れ果てていました。

「もう辞めたい」

そんな職員に、ある女性は言いました。

「あんたらは出て行けばそれでいいが、私らはここで生きるしかない」

患者たちの振る舞いにとまどいながらも、生活と人生をまるごと預かる診療所の役割を受けとめ、医師・看護師・職員は頑張り続けたのです。

アイビー





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歴史に学び 病院の新しい未来を(10)

5.ちいさな総合診療所 (1)

目の色を変えて頑張っても

1955年8月16日、診療を開始します。中本康雄所長、山内慧事務長、林泰代看護師の三人体制です。

開所初日の患者さんは12人。日を追うごとに増え、一ヶ月後には一日60人になりました。午後からは徒歩で往診、しばらくして自転車になりました。不定期の往診依頼も多く、少しでも時間に遅れるときびしく叱られたといいます。夕方になると日雇い健保(日雇い労働者が対象となる健康保険)の患者さんがどっと押し寄せます。午後9時頃ようやく患者さんが切れたかと思うと、飛び込みの急患、酔っぱらい患者が訪れる。そんな毎日で休む暇もありません。医療機械は、顕微鏡と消毒器だけでした。

アジア風邪(※)の大流行した1957年当時の状況を石田寿美恵看護師(のち総師長)が次のように述べています。

「訪れる患者さんは、内科、外科、眼科、婦人科、小児科、耳鼻科と、まったく総合診療所でした。一日、二百数十人の患者は三畳の待合室にあふれ、往診も最高時には60人に達しました。看護師は、カルテだし、料金計算、金の受け渡しに調剤。まだ錠剤は出回っていませんから、天秤で何種類もの散剤を計って一包ずつ薬包紙で包みます。診察室との仕切り壁に空けられた四角い孔(あな)から送られるカルテ処方が重なり、ひっきりなしに督促されます。頬をほてらせ、目の色を変えて頑張っても追いつきません」

 ※アジア風邪…1957年4月に香港から流行が始まり、東南アジアなどを経て全世界で流行したインフルエンザ。日本でも約5700人が死亡した。

100メートル道路福島付近

患者と家族を見つめ、向き合う

中本医師は、診察の合間をぬって往診にでかけます。田阪正利医師も応援に広島大学から駆けつけました。一日60軒も訪問し、毎晩10時までかかります。

訪れると老人が一人きりで寝ています。

「誰も世話をする人がおらず、布団は汚れ、悪臭を放っていました。手、背中、腕、足などあちこちに褥瘡(じょくそう)ができていました。これまで医師が一人でこの老人の床ずれの処置をしていたのだと知り、と胸にせまりました」と石田看護師はいいます。

このような往診を通じて、医師・看護師は、患者と家族の状況を見つめ、これと向き合うようになっていきました。

50年代福島町02



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歴史に学び 病院の新しい未来を(9)

4.診療所建設へ (3) 

大衆の要求に応えたい

医師がいなければ診療所を立ち上げることはできません。1955年5月末、海田診療所の法山大麓事務長から中本康雄さんに電話が入ります。

「福島町に診療所をつくる計画が進んでいる。大衆的にも建設してほしいという要求がきわめてつよい。党(共産党のこと)としても大衆の要求に応える必要がある。あなたにぜひ診療所長として赴任してほしい」

中本さんは、九州大学を卒業し、広島大学医学部第二外科に在籍。呉共済病院で研修中でした。赴任の話は晴天の霹靂(へきれき)で、「もっと勉強してから(赴任したい)」という思いだったといいます。

「呉共済病院では手術症例数が多く、私は外科医としてちょうど意欲が出ているときであり困惑しました。一人前の外科医になるには5、6年かかるということで、その基礎をつくるうえで私にとって非常に重要な時期であったのです。技術的に本当に人民大衆に責任のもてる医師になるというのが私の当初の目標でした」
迷っている中本さんの心をとらえたのは法山さんの次の言葉でした。

「住民、人民大衆が医療機関がなくて困っている。大衆の要求に応えねばならぬ」

中本医師
中本康雄さん

中本さんは「住民に責任をもてる医師は、診療所にいても努力すればなることができる。まず、最底辺から出発し、みずから切り開いていかねばならない」と考え、診療所の医師になることを決断しました。

家族や大学の教室は猛反対でしたが、土谷医師と広大第二外科講師だったお兄さんが説得。なによりも中本さんの「大衆の要求に応えたい」という熱い思いが、周囲の人びとを変えました。 

福島診療所と福島医療生協が誕生

診療所は福島町電停の北側にある民間住宅「永田寮」の1、2階の半分を借りることにしました。診療所にするために改修しますが、工事がなかなか進みません。それでも、早く開設すべきという意見があり未完成のまま1955年8月16日、福島診療所はスタートしました。1階は受付、薬局、診療所と当直の看護師が泊まる部屋。2階はみんなで食事をする部屋と中本医師・山内事務長が泊まる部屋です。2階はまだ窓ガラスが入っておらず、壁も塗りかけでした。

診療所開設の一ヶ月後、9月17日に西隣保館(現在のいきいきプラザ)で創立総会が開かれ、福島医療生活協同組合が誕生します。「みんなの診療所をつくろう」と奮闘した世話人とそれを支えた人びとの熱意がここに実を結んだのです。

永田寮
(永田寮)

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歴史に学び 病院の新しい未来を(8)

ビラまき


4.診療所建設へ (2)

あなたの力を貸してくれんさい

診療所を医療生協として設立し、その発起人には町内のあらゆる「長」になってもらう方針を世話人会は決めました。連合町内会長、町内会長、食肉・製靴企業代表、労働組合代表、婦人会世話人、消防分団長、解放団体代表……。いろいろな考えや立場の人がいる町を一つにまとめるには、町の実力者である福原留次さん(福留ハムの創業者)の力が必要だと考えました。オルグの山内さんと世話人の女性たちが設立趣意書をもって福原宅を訪問。趣意書を前に腕組みをしている福原さんに、女性たちは説得を続けました。3時間粘りましたが承諾が得られません。翌日また出向き、言葉数は少ないが熱意を込めて説得します。

「どうしても、この町に診療所をつくりたい。あなたの力を貸してくれんさい」

2時間後に福原さんは「わかった」と筆頭発起人の印を押しました。

こうして、世話人が手分けをして努力し、1955年6月28日、第1回発起人会を開催。福原留次さんをはじめ42人で発起人会を構成し、発起人代表に岡本盛義さん(市議会議員)を選びました。こうして全町一致の体制ができあがり、組合員加入と診療所建設を具体化させることになります。

1950年福島町
1950年頃の福島町

労苦をいとわず日夜奮闘

医療生協認可申請書は、「親切で、多くの人の健康を守るために、みんなの力をあわせて消費生活協同組合法によって、医療生活協同組合を作りたいと存じます」と呼びかけ、世話人や発起人が先頭に立って出資金を集めてゆきます。出資金は300円。当時の物価は、食パン一斤30円、豆腐一丁15円、ビール大瓶111円、ハガキ5円でした。生活が苦しいなか、出資金を毎日10円ずつ出す人が多くいました。

「アカの診療所に手を貸すな、協力できない」というアカ攻撃も受けます。アカ攻撃とは何の根拠なく「アカ=共産党」だからダメだというもの。これに対して、「アカもクロもない。町全体のためにみんなの診療所をつくろう」と女性たちは反論し、診療所の必要性を粘り強く説いて歩きました。

世話人会の人たちは労苦をいとわず日夜働きました。オルグの山内さんは、会議が終わると夜遅くても議事録やビラをつくり翌日に配布。その努力は会議を円滑にし、みんなの熱意がもりあがりました。山内さんは3ヶ月間無給。その間、世話人たちが山内さんの生活を支えたのです。このような努力の甲斐あって、わずか3ヶ月で診療所開設のめどがつきました。







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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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