パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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格差を縮めるための処方箋

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ピケティ『21世紀の資本』を読む(3)

世界的な累進資本課税

ピケティが格差解消のために提唱しているのは「世界的な累進資本課税」です。資本税とは、法人税や固定資産税、相続税、富裕税などのこと(日本には富裕税はありませんが、スイス、オランダ、ノルウェー、インドなどにはあります)。

国の枠組みを超えて「資本税」を徴収することによって、グローバル化し見えにくくなっている企業の利潤のゆくえを捉まえようとするものです。しかしその実現性は残念ながらほとんどありません。

累進課税を元に戻す

でも大丈夫。国際的な資本税を導入しなくても、格差を縮小することはできます。それは1980年代からどんどん緩められてきた累進制を元にもどす。お金のあるところからちゃんと税金を取ることです。

表1 所得税の最高税率
   75%→50%→37%→40%
 1987年~1989年~1999年~2007年~



 【表1】にあるように最高税率は75%から40%まで引き下げられました。1999年、所得税の最高税率が50%から37%に下がったとき、大金持ちは億単位で恩恵を被っています【表2】。

表2 これだけ減税された
(所得税と個人住民税)

①里見治(サミー会長)  10億6423万円
②福田吉孝(アイフル社長) 7億2089万円
③武井健晃(武富士専務)  5億7420万円
④豊田章一郎(トヨタ名誉会長)2億9072万円
⑤稲盛和夫氏(京セラ名誉会長)2億0138万円



法人税率も30年間で大幅に引き下げられました【表3】。1989年から2011年までの減税額はなんと153兆円。庶民には増税し、大金持ちと大企業には減税して格差を拡げたのです。

表3 法人税率
43.3%→37.5%→30%→25.5%
 1984年~ 1990年~ 1999年~ 2012年~


安倍政権は今後2年間で法人税と法人住民税を1.6兆円も減税しようとしています。大金持ちと大企業には大盤振る舞い。アメリカは 富裕層に増税し、中低所得者の減税に充てる税制改革を打ち出しました。日本も見習ってほしいものです。

**********
(1)資本主義は格差を広げる
(2)格差の拡大は運命ではない
(3)格差を縮めるための処方箋
(4)ピケティとアベノミクス

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歴史に学び 病院の新しい未来を(7)

4.診療所建設へ (1) 

縁の下の力持ちになろう

「福島町に診療所を」という願いは戦前のトラホーム治療運動の頃からありました。青年たちは「この夢をいつかは実現させよう、その日のために軍隊では衛生兵に志願しよう」と申し合わせたといいます。この願いは戦後に引き継がれ、①トラホーム治療の再開、②わかくさ子供会の発足と活動、③太田川改修闘争という三つの運動が大きく前進して行くなかで新たな展開をみせます。

1955年春、山内慧さん(のち専務理事)が福島町に病院をつくるオルグ(運動を組織する人)となりました。山内さんは福留総本店(現、福留ハム)に働く木原清春さん(のち理事長)を訪ね、木原さんから「数日中に関心を持っている人に集まってもらい、そのときに診療所の設立方法など相談したい」と頼まれます。10人ほどが会に集まり、「診療所はどうすればできるのか、医師はどうするのか、組織は…」といったことを議論し、医療生協方式でいこうということになりました。

「福島町の住民の力を結集して診療所をつくる〝縁の下の力持ち〟になろう」という決意をこめて、この会を「福島診療所設立世話人会」と名づけたのです。木原さんが会議の終わりに、診療所の設立は、1.全町に基礎を起き、支持される運動とする、2.自分たちの健康は自分たちで守るための運動である、という二点を中心におくことを提案。そのためには婦人の力が大切であるので、婦人にも世話人になってもらおうということを決めました。

太田川改修闘争02

「野道の草に生きる」

福島町の運動のなかに木原清春さんはいつもいました。木原さんは「自分たちの町だから自分たちできれいにしよう」「あそこのドブが詰まっているから掃除に行こう」と呼びかけ、みずからその先頭に立ちました。「このことが私の心に灯をつけ、多くの人に広がり、いま福島の町はまわりと変わらなくなりました」と中西はるゑさんは言います。

診療所建設の寄付を集めに回ったときのことを助産師の益田小蝝(こえん)さんは次のように回想しています。
「趣旨説明は倦まずたゆまず、じゅんじゅんと進められます。根気のよいうえに誠意が溢れ、説得力があるものですから、みな快く応じてくれました。わたしはつくづく木原さんの人徳だなあと感じ入りました。手柄顔は少しもなさらないのです」

福島診療所建設の世話人の一人として、事実上の推進指導者として活躍し、「報いられることを期待せず、部落住民の幸福を願って献身した木原さん。野の雑草のごとく強靱で謙虚に生きた人」だと、中西義雄さんが追悼文集『野道の草に生きる』に書いています。 

 

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賃労働と資本(6) 体験的古典の修行

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賃金は労働力の価格

問題を解く鍵は、「労働力」という新しい概念を見いだすことにありました。

「経済学者たちが『労働』の生産費だと考えたものは、労働の生産費ではなく、生きた労働者そのものの生産費であった」(45ページ)



労働者が資本家に日々売り続けているものは「労働」ではない。「いや、自分は毎日会社で働いて賃金を受け取っているんだ」というかもしれません。しかし、労働を売っているようにみえて、実は労働は売ることができない。なぜか?労働者は、「労働」という商品を持っていないからです。自分の物でないものを売ることはできない。

労働者は企業に雇われ職場があってこそ、労働することができます。そのことをエンゲルスは「労働者の労働が実際にはじまるときにはこの労働はもう労働者のものでなくなっている」(46ページ)と言っているのです。じゃあ、労働者が持っていて、日々売り渡しているものは何か?

それは働くことのできる能力、ちからなんです。エンゲルスは「将来の労働」という言い方をしています。「将来の労働」を時間ぎめ、一定の作業をする目的で資本家に貸すのです。 労働というのは労働力を発揮し、消費することなのです。

賃金は労働の価値ではなく、労働力の価値であるという点に気づけば問題は簡単に整理されます。労働者は労働力を時間ぎめで売り(ここでは12時間)売り、その対価として3マルクを受け取る。労働者は労働することによって自らが手にする価値(3マルク)以上の価値をつくりだす。労働力商品とは「適当に取り扱えば(「いいかげんに」という意味ではありませんよ。「適切に」の方がいいですね)それ自身がもっている価値より大きな価値」を生むのです。 

 

1日の労働が生む価値-労働力の日価値=剰余価値



ここでは「剰余価値」という言葉は出てきていませんが、マルクスは資本論で、労働(時間)のうち必要労働(時間)を超えて行われる労働(時間)のことを剰余労働(時間)と呼んでいます。必要労働(時間)とは、労働者の賃金相当部分(ここでは6時間=3マルク)。

剰余労働から生み出されるのが剰余価値で、これが資本家の儲けの源泉です。



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賃労働と資本(5) 体験的・古典の修行

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二つの異なる価値

エンゲルスは、これらの生活資料の貨幣価格、すなわち生活費を1日3マルクと仮定します。
 ※「仮定する」とあるように、数字はあくまで仮定の話で、推理のために置かれているに過ぎません。マルクという単位もどうでもいい。以下、いろいろ仮定の数字がでてきますが数字や単位にこだわらず、理屈の展開(推理)に注目し、手品の種明かしをお楽しみください。

 労働者は1日働いてこの3マルクを賃金として受け取ります。

 資本家はこの賃金の支払いと引替えに労働者を自分の指揮命令の下12時間、働かせ ます。
 
 機械工がある機械の一部品を一日ひとつ作ると仮定する。

 そのもとで、資本家はつぎのように計算します。
                      完成品
  ・原料       20マルク → そのまま商品の価値に移行
  ・旋盤など機械磨損分 1マルク → そのまま商品の価値に移行     
  ・賃金        3マルク         
   ・儲け        3マルク         
              合計27マルク
 

 ※原料はそのまますべてが商品の価値に移行しますが、機械はみずからの価値を少しずつ商品の中に移行させます。仮にある機械の寿命が10年で、年間300日稼働するとすれば1日あたり3000分の一だけその機械の価値が移転することになります。機械は少しずつ価値を減らしていく。そのことを帳簿上明らかにするのが「減価償却」なのです。

労働者の賃金3マルクと資本家の儲けの3マルク、合計6マルクははどこから出るのか?「わが経済学者たち自身の仮定によれば、わが労働者が原料につけくわえた労働からしか生じることができない」(43ページ)

「わが経済学者たち」とは、古典経済学者のことですね。彼らは労働価値説、労働が価値の源泉であるという立場です。原料と磨損分の価値は増えることも減ることもなくそのまま商品に移行します。ですから、労働者の賃金も資本家の儲けも「労働からしか生じることができない」わけです。

したがって、労働者の12時間の労働が6マルクの価値を生み出し、「労働の価値」は6マルクだということになります。めでたし、めでたし。
 
そこへ、労働者が待ったをかけます。労働の価値が6マルクなのになぜ自分たちは3マルクしか受け取っていないのか。
 
「労働の価値は労働の価値によってできている」という堂々めぐりから抜け出たと思ったら、今度はとんでもない矛盾にはまりこんでしまいました。

「12時間の労働の価値は6マルクなのか3マルクなのか。それが問題だ」とハムレットのように思い悩むのです。

しかし、この問題は「労働の売買」や「労働の価値」を論じているあいだは解くことができません。

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歴史に学び 病院の新しい未来を(6)

3.福島の町を変えてゆく (2) 

福島をきれいで住みよい町に

1937年、太田川放水路を作る計画が始まります。この地に住む人々は安い価格で土地と住まいを奪われ、福島・南三篠町の空き地に移ることになりました。1943年に工事は中断。45年、原爆投下によって焼け出された人びとはバラックを建てて暮らし始めます。引き揚げ者などで町はあふれ、泥沼か低湿地の放水路敷地内にもバラックが建ってゆきました。福島町全体で45%がバラック、21%が共同便所、57%が共同水道というきわめて劣悪な住環境。広島市当局はこの状況になんらの手も打たず、「見苦しい」不良住宅街を放置しました。

1948年、太田川改修工事再開のため、政府は再び立ち退きを迫ります。福島町の人たちは、福島町をきれいな住みよい町にしたいという願いで団結し、たたかいに立ち上がりました。太田川改修工事は、広島市民を水害から守り、平和都市広島をつくるうえでも必要だということを前提にしつつ、移転者への十分な補償と近代的平和都市建設の一翼を担う福島・南三篠町の建設、さらには、この地域を放置し続ける差別行政の撤廃を求めたのです。

おおいに盛り上がる運動

太田川改修闘争が本格化するのは1954年3月6日の住民大会から。立退者130戸が太田川改修立退者生活擁護連盟を結成します。声明や決議、チラシなどがさかんにつくられ、運動はかつてない盛り上がりをみせました。逃げ隠れする当局にしびれをきらした住民たちは3月23日、実力行使に踏み切ります。

太田川回収闘争
貨車の上に荊冠旗がはためいている



「荊冠旗(けいかんき)をおしたてて現場にのりこみ、ごうごうと重たそうに走ってくる土砂運搬車のレールに全員男も女も、おばあさんもおじいさんも、朝鮮人も日本人も、〝わしゃ、先が短いんじゃけ、若いもんはうしろへ行きない。一番さきにすわるけえ〟と叫ぶおばあさんを先頭に、全員坐りこんでストップさせ、ひるすぎには完全に工事を中止させた」(六岡幸路「太田川改修工事と福島町民のたたかい」『部落』53号)

工事は5日間ストップ。しかし、当局は相変わらず話し合いに応じようとしません。解決の基本的な合意ができるまで半年もかかりました。立退者に不安を与えないこと、立退いた後の家と土地を保障すること、工事には地元の人を採用することなどの要求が実現したのです。

権利の自覚と「やればできる」という自信

太田川改修闘争は、地域ぐるみ、家族ぐるみのたたかい、「明るく展望のある闘争」として取り組まれ、自主的で民主的な運動をつくる力が格段に高まりました。「厳しいたたかいであったが、このたたかいを通して一人ひとりが人間としての権利を自覚し、やれば出来るという自信を持つようになった」と藤川春雄さんは述べています。この闘争のなかで部落解放全国委員会広島県福島支部がつくった「要求書」には太田川改修についての要求とともに「総合病院の設置」が掲げられ、診療所建設へとつながってゆくのです。 

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歴史に学び 病院の新しい未来を(5)


3.福島の町を変えてゆく(1)

問題山積の福島町を変えてゆく

原爆で焦土と化した広島。復興への取り組みが市内中心部から始まる一方で、福島町は、差別と貧困による生活環境の悪化と原爆による健康被害が広がっていました(田阪正利編『部落問題と原爆の町』)。町には日中からぶらぶらする若者の姿が目立ち、博打、覚醒剤、アルコール依存や、長欠児童など、問題ばかりが山積し、復興どころではなかったといいます。

しかし、そんな福島町が変わってゆきます。なぜ変わったのか? それは、①トラホーム治療運動、②わかくさ子供会の発足と活動、③太田川改修闘争という3つの取り組み、運動があったからです。そして、これらの積み重ねが、無医地区であった福島町に診療所をつくり、福島生協病院を生み出していく土台となりました。

一つずつみてゆきましょう。

①トラホーム治療の再開

戦前のトラホーム治療運動が、1949年に再開されます。土屋厳郎医師の協力をふたたび得ながら無料での治療を始めました。対市交渉で薬剤などを市にださせることに成功。受診者数は901名(うち患者748名)、患者延人員は635名で、一日平均100名の患者を治療しました(ふくしま文庫編『地域民主主義を問いつづけて』)。

この運動を主として担ったのは青年と女性です。戦前のトラホーム治療運動のなかで青年たちは診療所建設の夢を語り合い、戦後を迎えました。女性たちは、この運動のこまごまとした世話を縁の下の力持ちとなって働きました。

1951年から年2回の治療が実施され、52年に治療薬テラマイシンができるとトラホームは激減しました。

わかくさ子供会

②わかくさ子供会の発足

トラホーム治療運動を担った青年たちは、子どもたちに目を向けていきます。「町には不就学・長欠の子どもがあふれており、食べることで精一杯の親たちからは、子どもは放りっぱなしでした」(中西はるゑさんの講演、前掲『地域民主主義…』)。

そんな子どもたちをなんとかしたい。1950年、わかくさ子供会がスタートします。初めは学校の補習を中心とした運営でしたがは子どもたちに不評。30人いた参加者はあっというまに10人まで減少します。そこで子どもたちに「何をやりたいか」を尋ね、引き出した答えは「珠算・音楽・童話」でした。子どもたちの要求はさらに広がり、習字・図画・レクレーション・町内清掃・文化祭・ハイキングなど、多彩な活動に取り組むようになります。

わかくさ子供会に関わった人は1000人を超え、地域の運動や広島中央保健生協の担い手を生み出していったのです。

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歴史に学び 病院の新しい未来を(4)

2.原爆に苦しめられて(3)

金崎原爆02
【金崎是(かねざきすなお)】1916年、広島市福島町に生まれる。廿日市にあった宇品造船廿日市工場で勤務中に被爆。すぐに福島町の自宅に帰り、妻と子どもを探すため、己斐国民学校へ行き、惨劇を目撃。2007年没。金崎さんは福島診療所建設に尽力された方です。福島生協病院東側に設置されている陶板の碑は金崎さんの絵が焼き付けられています。

顔がぜんぜん分からない

8月6日8時15分、1つになる子を背負って洗濯をしていた。その日、己斐小学校に行っていた小学校2年生のよしきよは、食べるものがないため、栄養失調で学校を休んでいた。B29飛行機見たさに外に出た。すると壁が落ちてその下敷きになり、胸から上をやけどしていた。

夫はこうせい協会に勤めており、その日は夜勤のため、朝帰って寝ていた。夫は気狂いのようになって、「よしきよや、よしきよや、よしきよ……」といって下敷きになった子を探し回った。すると壁の下敷きになったよしきよが、かすかに「うーん」と言った。それを頼りに探し回った。かすかに手の先がみえた。それはよしきよの小さな手だった。引き出してみると顔はずるむけで、全然わからないほどだった。背負っていた子どもが恐れるほどのずるむけようだった。助け出してすぐ防空壕に連れて行った。夫はその時足を悪くし、本当にあのときのおそろしさは口では言えるものじゃない。

4日間苦しんだすえ亡くなったわが子

よしきよは4日間苦しみ続けて死んだ。

2日めごろから血膿が出て、糸切り歯から血が出てその歯が落ちたとき「歯が抜けたん。どうしようか」といってひどく心配する。4日間も苦しんでかわいそうでならん。その血膿はカーバイトのように臭かった。

家に帰って2日目に戸板にのせて医者に連れていった。そのころ足の裏に斑点がでていた。医者では、岡山からの薬を注射してくれた。ほいじゃが苦しさのあまり転げ回り可哀そうでならんかった。えらい子じゃったのに……。ほんま残念なことをした。勉強が好きで親孝行の子じゃった。その子は学校を栄養失調のため、よう休まにゃならんかったけん、学校へ行きたさのために3,4回も家を抜け出したことのある子じゃった。歌が好きな子で、よう「お山の杉の子」を歌っとった。歯が落ちて死んだんじゃが、体が溶けるんじゃろうか、水ばかりを飲んどって水を欲しがった。4日間苦しみ続けたあいだ、「おかあちゃん、水を離さんでね」と言って、かわいそうで腰が抜けるほどだった。ほんまこっちの方がまいるようなかった。

(丸岡ユキさんの手記から一部を抜粋。福島地区被爆者の会『壁』第1集)



 



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歴史に学び 病院の新しい未来を(3)

金崎原爆02
「炎の中を逃げる人々」
【金崎是(かねざきすなお)】1916年、広島市福島町に生まれる。金崎さんは福島診療所建設に尽力された方です。

2.原爆に苦しめられて(2)

ペチャンコになった町

わたしはピカのとき、屠場(とば・牛を屠殺するところ)で働いていました。ガラスの破片で頭や手足にケガをしました。頭の傷から血が流れるのでフンドシを頭に巻きつけ、ペチャンコになった我が家から家内がはい出してきて、3人の子どもが遊びにいっているから、探してくれといったので、ペチャンコになった町を、あっちこっちと探しました。3人の子どもは結局、現在でいえば大田川放水路下の草むらに町の者と一緒に避難していました。3人とも顔だけヤケドをしていました。それは福島川(注・今はない)で泳いでいたからで、ピカの時、顔だけ水の上にだしていたためでした。

必死に生きてきたのに

子どもたちと家内をかかえ、とにかく喰っていかなければならないので、自分のできることはなんでもやりました。闇もやった。牛の密殺もやりました。そして3人の子どもたちはそれぞれ一人前になった。まあ、これで自分の役目も終わったんだと思いました。ところが胃ガンの疑いがあるということで手術を受けてからは、もう仕事どころか毎日病院通いが今の生活です。

原爆の被害と部落差別

いつか「被爆者の会」の人から、こんな話を聞かされました。福島町の者は原爆の被害をより一層強く受けているということだった。それは町が未解放部落であるからだということでもあった。いわれてみるとほんとうにそうです。他の町の者とは結婚が出来ない。仕事も他の町にない食肉や製靴、それに土方人夫やゲタ、靴の修繕、たまに他の町に勤めても、なにかと差別をされ、一月もたたぬうちに、辞めてしまうというありさまで、考えてみれば腹の立つことばかりでした。
 
「あまりつきあわん方がいい」

わたしは18歳のとき、吉島町にあった広島製紙工場の原料であるワラを船から荷揚げする人夫になって働いていました。日当1円20銭(大正7,8年頃)は、わたしにとっては、かなりの魅力でした。米1升が20銭でしたから、親に半分渡し、半分は自分で使った。60銭あれば活動写真もみられた。酒も呑めた。女も買えた。まったく何もいうことがないように思えた。

ところが、「あいつは福島の者だから、あんまりつきあわんほうがええで」と陰口を言う者がおり、腹が立ちその陰口を言ったやつと大喧嘩をし、相手をコテンパンにやっつけたが、工場側は理由を聞かず「明日から来なくててもよい」と言い、クビになった。差別をした奴はクビにならず、差別をされた者はクビになる。まったく酷い話ではないか。

(佐和田政一さんの手記から一部を抜粋。福島地区被爆者の会『壁』第3集)




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歴史に学び 病院の新しい未来を(2)

2.原爆に苦しめられて(1)

原爆に焼かれて

1945年8月6日8時15分、原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。

爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。

原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめることにあります。

爆心から1.5キロメートルから2.7キロメートルの地点にある福島町でも、家屋の大半が爆風によって全壊し、放射された高温の熱線によって火災が起こりました。

広島の西の出口にあたる福島町を通って多くの人が避難してゆき、死者や負傷者であふれました。

金崎原爆01
「焼け焦げたボロボロの体で火の中を逃げ惑う」
【金崎是(かねざきすなお)】1916年、広島市福島町に生まれる。
金崎さんは福島診療所建設に尽力された方です。



生き地獄だった

菊広忠夫さんの手記を紹介しましょう。

私は当時、家のあった福島町2丁目で被爆しましたが、兄嫁とおいの嫁のめいも近所の事務所で被爆しました。私が記憶しているのは、ピカッと光ったあと、妙蓮寺という寺のブロックの塀の上に自分が立っていたということです。どうして自分がブロックの上に立っているのか、またピカッと光った後からそれまではすっかり空白状態で思い出せません。でも目の前に大きな寺がぺっちゃんこになっているのを見て本能的に、このままここにいたら死んでしまうと感じました。そこで私の母親をつれだして兄と3名でまずこの町の旭神社に避難しました。

原爆投下8時15分の後わずかして雨が降り出したことを覚えています。その黒っぽい雨に当時何も知らなかった人びとの間で、米軍がガソリンを空からまいたという噂がありました。私たちは己斐方面に避難しようと焼け家を通り過ぎるうちにも、皮膚がめくれて焼けただれている人やあの原爆のヤケド特有のダラリと両手をたれてそのまま死んでいく人に30人ぐらい会いました。

母の目が見えなくなり己斐で避難していましたが、私は残りの家族が気にかかったので旭橋を通って引き返しましたが、その日は堤防の下に野宿しました。兄は胸、両手足にやけどをしたぐらいでしたが、おいとめいは隣保館()の下敷きになっていました。私も真っ黒な雨にぬれて4日ぐらい下痢をしましたが、畑の青くて固いトマトをかじったのがよかったのかもしれません。2日目からむすびと乾パンの配給がありましたが、傷をしていても薬もないし、全く生き地獄でした。
いまの「いきいきプラザ」

(福島地区被爆者の会『壁』第3集)





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歴史に学び 病院の新しい未来を(1)

はじめに

広島中央保健生協は今年(2015年)創立60周年を迎え、福島生協病院は今秋、新病院がオープン予定です。この節目の年に、あらためて生協と病院の原点を確認しようということで、福島生協病院・職員ニュース「元気予報」に14回にわたって「歴史に学び 病院の新しい未来を」を掲載しました。

『広島中央保健生協50年誌』(広島中央保健生協、2010年)を基礎としていますが、以下の文献も活用させていただきました。職員向けニュースであり、読みやすさを考え、引用符なしで本文のなかに織り込んでいます。ご了解下さい。

ふくしま文庫編『地域民主主義を問いつづけて』部落問題研究所、1992年
田坂正利編『部落問題と原爆の町』部落問題研究所、2000年
石田寿美恵『麦飯花 白衣の半世紀』日生協医療部会、1992年
『民医連綱領・規約・歴史のはなし〈2005年改訂版〉』全日本民医連
『無差別・平等の医療をめざして』全日本民医連、2012年

*******************

1.差別と貧困 戦前の福島地域

被差別部落だった福島町

福島生協病院の建つ福島町はかつて被差別部落でした。武士、町民、農民の身分が厳しく分かれていた江戸時代。最下層に「人間外の人間」の身分がつくられ、部落ができます。明治時代になり「賤民解放令」が出されましたが、現実には結婚や就職などの差別が根強く残り、厳しい暮らしを強いられました。

厳しい差別と劣悪な環境のなかで生きる部落の人びと。大正時代になると自主的な解放運動が始まります。1922年、部落民たちは全国水平社を結成。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とだれもが人間らしく生きる世の中をつくるために「全国に散在する我が特殊部落民よ団結せよ」と呼びかけました。翌年には広島県水平社大会が開かれ、県本部が福島町に置かれました。

水平社宣言(一部)
 我々が「エタ」である事を誇り得る時が来たのだ。
 我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ=おくびょうなこと。おじおそれること)なる行為によつて、祖先を辱(はずか)しめ人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何んであるかをよく知つている吾々(われわれ)は、心から人世の熱と光を願求礼讃(がんぐらいさん=願い求め、ほめたたえること)するものである。   
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。

 

昭和に入り、軍国主義が広がっていきます。検挙されたり非合法の活動を強いられながらも差別と貧困からの解放のための活動は続けられました。

病気を治そうと思えば食えない

福島町は1932年から敗戦を迎える1945年までの13年間、無医町でした。大正末期から昭和にかけてトラホーム(伝染性の慢性結膜炎)患者が増え、1921年には5人の医師が、28~30年には青木静仁医師、34年~40年、土屋厳郎医師が福島町で治療に当たりました。土屋医師は「自分の一生のうちで、一番燃えたのはあの雪の舞い込む診療室だった」といいます。

「(病院行くとなっても)貧しいから服を整えることができない、入院するにしても、まず布団をどうしようかということになる。もっとも問題なのは、入院したら仕事を休まねばいけない。そうすると金が入らない、メシが食えない……。病気を治そうと思えば食っていけなくなるという、生活の問題にすぐつながるわけです」(土屋医師)

6年にわたり無料で治療がなされました。この治療を通じて、人びとは日頃から身の回りを清潔にし、みずからの健康を守るくらしのあり方を学んでいきました。
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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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