パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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空想から科学へ(14)  体験的・古典の修行  

●資本主義の根本矛盾 

全回も紹介したように「社会的生産と資本主義的取得とがあいいれない」ことを、資本主義の根本矛盾と呼んでいます。

 「生産手段と生産とは本質的に社会的なものになった。だが、それらは、個々人の私的生産を前提とする取得形態、したがって、各人が自分自身の生産物を所有し、それを市場にもちこむ場合の取得形態に従わせられる。生産様式はこのような取得形態の前提を乗り越えている※にもかかわらず、この取得形態に従わせられるのである。この矛盾が新しい生産様式にその資本主義的性格をあたえるのであって、この矛盾のうちに、現代の衝突の全体がすでに萌芽としてふくまれている」(87~8ページ。訳を一部変えている)



社会全体で富をつくりだすのに、その富は資本主義的に取得--すなわち一部のものがその大部分をわがものにする--される、ここにエンゲルスは資本主義の根本的な矛盾をみいだしたのです。

※私はaufhebenを「廃止」ではなく「乗り越える」と訳します。それはマルクスやエンゲルスがこの語をヘーゲルのそれを踏襲して使っていると考えるているからです(残念ながらマルクス・エンゲルスの著作の邦訳のほとんどが「廃止」という訳語をあてています)。

ヘーゲルはaufhebenについて、『小論理学』(岩波文庫)で「ドイツ語のaufheben(揚棄する)という意味が二重の意味を持つことに注意すべきである」として、否定的側面を「除去する」「否定する」という意味と肯定的側面を「保存する」という意味をあわせもっているというのです。(上巻、295ページ)。止揚、揚棄という訳語は意味が分かりにくい。

「自分で自分を吟味し、自分自身に即して自分の限界を規定し自分の欠陥を指示する」(同167ページ)という内容からして、「乗り越える」というのがふさわしい。哲学者の牧野紀之さんが「克服する」という訳語を提案していて、基本的にそれに賛成ですが、よりやさしく大和言葉で「乗り越える」がいいと私は考えます。

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空想から科学へ(13) 体験的・古典の修行

●社会主義を唯物史観で捉え直す

「大工業」(große Industrie)が全面的に発展することによって「資本主義的生産様式」(kapitalistische Produktionsweise)と相いれなくなり、「衝突」(Konflikt)を起こすようになります。 「衝突」を繰り返すなかで資本主義を乗り越えていく経済システムに行きつかざるをえない。 これが唯物史観によって捉え直した社会主義です。

「大工業」というのはマルクスの重要な概念で、『資本論』第一部第13章「機械と大工業」は、新書版で200ページ以上、第一部の2割近くを「機械と大工業」の分析に割いています。

※大工業とは、単に「大きい」ということではなく、機械を掌握し、機械によって機械を生みだすことが、その技術的基礎となった生産様式のことです(新日本新書版③665ページ)。機械の導入と発展は労働時間短縮の技術的基礎を生みだし、労働時間の短縮が、「全面的に発達した人間」(同③832ページ)の条件となります。大工業こそが「人間の頭脳を変革」(同833ページ)するのです。

「社会主義は、この現実の衝突が思想に反映(Gedankenreflex)したものにほかならない」(82ページ)とエンゲルスは言います。

そしてこの生産力と生産様式との「衝突」の本質は、生産が社会的になってゆくにもかかわらず、そのつくりだされる富がごく一握りの人たち(資本家階級)によって取得されてしまうという点にある。このことをエンゲルスは「資本主義の根本矛盾」と呼びました。

「社会的」とは、「個人的」と対になっていて、社会の人びと全体が関わってゆくという意味です。物づくりが社会全体の共同(協働)になってゆく。しかし富はごく一握りの人びとが独り占めにしてしまうのです。

池田香代子さんが翻訳・再話した『世界がもし百人の村だったら』(マガジンハウス)は「すべての富のうち六人が五九%をもっていて、みんなアメリカ合衆国の人です。79人が39%を、20人が、たったの2%を分けあっています」とそのいびつな姿の、今日的なありようをみせてくれます。百人村の20人とは12億人。フォーブスの2006年の調査によると、マイクロソフトのビルゲイツ会長(当時)の個人資産とバングラディシュのGDP(国内総生産)がほぼ同じで驚きました。バングラディシュの人口は1億4000人です。


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空想から科学へ(12) 体験的・古典の修行

●唯物史観とは

第三章(79ページ~)に入ります。

唯物史観は史的唯物論とも言いますが、唯物論を基礎にした歴史観=現状分析の武器です。ものごとを歴史的、発展的にとらえるためにどういう視点が必要か、ということで単なる歴史=過去の見方ではありません。未来を見透し、未来のために「何が必要なのか」を析出するためのものです。

唯物史観はつぎの三つの観点を必要とします。

①「あらゆる社会的変革と政治的変革の究極の原因は……生産および交換の様式の変化に求めなければならない」

②「あばきだされた弊害をとりのぞくための手段も、やはり変化した生産関係そのもののういちに――多かれ少なかれ発展したかたちで――存在しているにちがいない」

③「これらの手段は、けっして頭のなかから考えだすべきものではなくて、頭をつかって、現存の生産の物質的諸事実のうちに発見しなければならない」(80ページ)



●世の中を変える根本的な要因は経済

世の中を変える根本的な要因は、生産と交換のしかた、すなわち経済のあり方が生みだします。いまふうに言えば、「貧困と格差」のありようということです。

「貧困」(Elend)というのは、単に貧しいということだけを意味するのではありません。マルクスは、貧困について『資本論』で次のように説明しています。

「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級(労働者階級のこと、二見)の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」(新日本新書版④1108ページ、『空想から科学へ』にも引用されています)



このように資本主義のあり方が労働者を苦しめるのですが、労働者は資本主義に翻弄されつつも、それとたたかい、資本主義の弊害を取りのぞこうと努力します。そのための手段もまた現実のなかにある、とエンゲルスはいうのです。

資本主義の発展そのものが、労働者を結びつけ、解放のための手段を生みだします。パソコンやインターネットもそういうもののうちの一つといえるでしょう。労働者階級は「はげしくはあるが彼をきたえる労働の学校をむだに卒業するわけではない」(『聖家族』マルエン全集②34ページ)のです。

資本という煉獄に焼かれながら、そこからはい出ようとする。日本での「反貧困」の運動や「派遣村」の実践、アメリカでの「私たちは99%(We are the 99%)、ウォール街を占拠せよ」の運動がその今日の姿です。
 

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空想から科学へ(11) 体験的・古典の修行

●社会をどうとらえるか

経済構造が土台で、法律や政治、そして宗教や哲学など人間の頭のなかのこと、考えていることは、上部構造として土台に載っている。我が師、中易一郎(ペンネーム須賀三郎)はかつて次のように説明しました。

まず、土台(生産関係)にみあった上部構造がつくられるということだ。わてもアホやけど、あんたかてアホやで、という関係だ。ただし、主導権は土台にある。気どっていうと、土台は上部構造を規定する。上部構造は土台をうつしだして(反映)いる。だから、その時代の支配的な思想は支配者の思想だといえる。気ィつけなアキマヘンで。……さてそれじゃあ、上部構造は土台によって規定されっぱなし、作用されっぱなしなのかというと、そうじゃない。……いったんできあがった上部構造は、一応それなりに独立性をもっている。相対的に独立しているといってもよい。ここは大切なところだ。(須賀三郎『やさしい哲学』95ページ、学習の友社)


エンゲルスも「究極的には」という言葉を使っていることに注意してほしい。究極的とは、「とどのつまり」。経過はいろいろあるけれど、結局は…ってことです。けっして、経済がすべてを決めるということではないのです。

●社会主義を科学的なものへ 

マルクス以前のユートピア(空想的)社会主義は「社会制度の新しい、より完全な体系を考えだして、これを宣伝によって、できれば模範的実験の実例をつうじて〔ロバート・オーエン 二見〕」(43ページ)普及しようとしました。「彼らすべてにとって、社会主義とは、絶対的真理、理性、正義の表現なのであって、ひとたび発見さえすれば、それ自身の力で世界が征服できる」(59ページ)と考えたのです。

 マルクスの考え方はこれとまったく違います。

「社会主義の課題は、もはや、できるだけ完全な社会制度を仕上げることではなくて、これらの階級(労働者階級と資本家階級)とその対抗抗争とを必然的に発生させた歴史的な経済過程を研究し、この経過によってつくりだされた経済状態のうちにこの衝突を解決する手段を発見することであった」(77ページ)。


単に「資本主義はダメ」と否定するのではなく、資本主義社会の害悪がなぜ起こるのか、を明らかにし、その害悪を乗り越える力がどこにあるのかを示すこと。これがマルクスの社会主義がそれ以前のものと大きく異なる点なのです。
 マルクスは資本主義の害悪の根源が「不払い労働の取得」という搾取(さくしゅ)、言い換えれば「剰余価値」(じょうよかち)の生産にあることをつきとめました。

「労働者の労働力を、それが商品として商品市場でもっている価値どおりに(資本家が)買う場合にさえも、自分がそれに支払ったよりも多くの価値をこの労働力から引きだす」(78ページ)のです。

簡単に言えば「労働力の価値どおり」とは、まともな生活ができる賃金が与えられているということ。そうであっても資本家は儲かるのです。ましてや今の日本のように、ワーキングプアが広がればしこたま儲かる。

さっぱり分からない?

少しも「簡単でない」と文句が聞こえそうです。今はまだ分からなくてもいいです。そのしくみは『賃労働と資本』『賃金・価格・利潤』で解説しますのでお楽しみに。

剰余価値とは何が「余っている」のか?何の余りなのか?予想してみて下さい。

さあ、ようやく第二章の終わりです。

 「唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」という「二つの偉大な発見」がマルクスによってなされ、「社会主義は科学になった」とエンゲルスは言います。 「科学になる」とは、実践の「導きの糸」になるということです。けっして、証明済みということではありません。私たちが世の中をよりよくしようとするときの手助けになるということです。

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空想から科学へ(10) 体験的・古典の修行

●ゆいぶつろんは「タダ」物じゃない

「ヘーゲルの弁証法も乗り越えられるときが来た」と(8)の最後に書きました。

それは、ヘーゲルの弁証法は観念論と結びついていた点の克服が求められていたのです。

「観念論」(かんねんろん)、またまた大切な言葉がでてきました。この言葉の対になる言葉は、73ページに出てくる「唯物論」(ゆいぶつろん)です。エンゲルスの説明を読みましょう。

「ヘーゲルは観念論者であった。つまり、彼にとっては、彼の頭脳のなかの思想は現実の過程の多かれ少なかれ抽象的な模写とは考えられないで、逆に、事物やその発展が、すでに世界よりもまえになんらかの仕方で存在してた「理念」(Idee)の現実化された模写でしかないと考えられたのである」(71-2ページ)



「思想は現実の過程の多かれ少なかれ抽象的な模写」と考えるのが唯物論であり、「事物やその発展が、すでに世界よりもまえになんらかの仕方で存在していた『理念』の現実化された模写」と考えるのが観念論です。

『フォイエルバッハ論』では、「思考」(思うこと)と「存在」(あること)の関係として整理されていて、「存在」が根っこで「思考」が生まれると考えるのが唯物論で、その逆に考えるが観念論なのです。

高校生のとき、倫理社会の先生が「物やお金をたくさん持っている人を好きになる人は唯物論者で、貧乏でも理想が高い人を好きになる人は観念論者」と説明するのを聞いて、あまりのデタラメぶりに驚きあきれました。

唯物論は「タダモノ」論=物質至上主義ではありません。また、マテリアリズム(観念論)を理想主義と訳すこともありますが、理想を掲げるのは唯物論もいっしょ。そこに区別はありません。

●弁証法的唯物論と階級闘争

 唯物論は、自然科学の発展とともに「形而上学的な、もっぱら機械的な」それから「歴史のなかに人類の発展過程をみる」唯物論へと発展しました。「現代の唯物論は、本質的に弁証法的」なのです。

あまり図式化はしたくないのですが、「唯物論+形而上学的な見方」と「観念論+弁証法的な見方」という組み合わせでは、どちらも事実をありのままにとらえられなかった。弁証法的な唯物論の登場の時が訪れ、それをなしとげたのがマルクスとエンゲルスでした。

歴史観(社会観)についての「決定的な方向転換」は、自然観の急転回よりずっとまえ一九世紀中頃から始まりました。労働者のたたかい、大工業の発展、ブルジョアジー(資本家)のよる政治的支配の発展、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争。

資本主義社会のなかでの資本と労働という対立。労働者のなかに生みだされる格差と貧困。「物質的利害にもとづく階級闘争」。歴史は動くのです。

歴史はなにによって動くのか。

「これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であった。これらのたがいにたたかいあう社会の諸階級は、いつでもその時代の生産関係と交易関係、一言でいえば経済的諸関係の産物である。したがって、社会のそのときどきの経済構造が現実の土台をなしている。それぞれの歴史的時期の法的および、政治的諸制度や、宗教、哲学、その他の見解〔Vorstellungsweise〕すべては、上部構造として、究極においてこの土台から説明されるべきである」(76ページ)


 
「その他の見解」って何でしょう?「見解」というとある具体的な問題についての意見という感じですが、ここでは一般的なものの見方、考え〔Vorstellungsweise〕です。「その他の考え」です。


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空想から科学へ(9) 体験的・古典の修行

(8)の最後に「そしていまや,ヘーゲルの弁証法も乗り越えられるときが来た。それは何か?」と書きましたが、そのことに入る前に弁証法にとって大切な概念である「媒介」について説明しましょう。

●媒介のある対立とは

「形而上学者はものごとをもっぱら媒介のない対立のなかでのみ考える。肯定と否定とは絶対に排除しあう。原因も結果も同様にこわばって動きのとれない相互対立をなしている」(65ページ)



この説明をひっくり返せば、弁証法は「ものごとを媒介のある対立」としてとらえるということです。

「媒介のある対立」ってなんでしょうか?

「媒介」とは一般的には「仲立ち」を意味します。風が受粉させれば「風媒花」、ハチなど虫がなかだちすれば「虫媒花」。結婚式のときの媒酌人…。

しかし、ヘーゲルのいう「媒介」は、そういう意味から微妙にずれています。「仲立ち」は第三者、風とか虫とか仲人といった外部にではなく、対立そのもののなかにある、と考えている。

「媒介性」(Vermittlung)を「直接性」(Unmittelbarkeit)という言葉と対で使っています。肯定的側面はかならず「否定的側面」と結びついて(媒介して)います。ある時点で原因と思われていたことは、一定の結果を生みだし、それが次なる原因になる。

こういう相互に移りゆく関係、肯定は否定によって、原因は結果によって媒介されるというんですね。「失敗は成功のもと」という言い方があるでしょう。失敗は失敗なんですが、それがなぜ失敗したのかを究明することができれば、成功へと通じる。

ですから、弁証法的に考えるために大切なのは、物事を一面的に見ないことです。実験や実践が成功したときには、その成功を喜びつつも、問題はないのかを考える。失敗したときには、全否定するのはなく、成功へ導くヒントを見つけだそうとすることです。

●山は海の恋人

『鉄は魔法つかい』(畠山重篤著・小学館)という面白い本を読みました。

畠山さんは、宮城県の気仙沼でカキの養殖をしている漁師です。1989年から「森は海の恋人」というキャッチフレーズで、気仙沼湾に流れる大川上流の山に木を植える運動を続けています。

漁師さんがなぜ山に木を植えたのでしょうか? カキのえさとなるのは植物性プランクトンです。この植物性プランクトンの育ちが実は山と関係があるのです。

1970年頃から、赤潮が大発生し、魚や貝がとれなくなりました。海の環境が悪くなっていったのです。「ゆたかな海に流れこむ川の流域には必ず森がある」。海の環境悪化の森の荒廃と繋がっていたのです。森と海を繋いでいるのは川、そして水です。

豊かな森は、たくさんの腐葉土ができますが、そのときに「フルボ酸」という物質ができるんだそうです。雨水とともに染み込み、地中へ流れ、鉄分を溶かし込む。水に溶け込んでいる微量の鉄分が、プランクトンの成長に大きな役割を果たすことを畠山さんはつきとめました。

鉄が海と森の「媒介」をなし、魚介類を育てる「魔法使い」というわけです。

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空想から科学へ(8) 体験的・古典の修行

●自然科学から哲学へと移された「形而上学」的な見方

「形而上学者はものごとをもっぱら媒介のない対立のなかでのみ考える。肯定と否定とは絶対に排除しあう。原因も結果も同様にこわばって動きのとれない相互対立をなしている」(65ページ)


 「あれはあれ、これはこれ」と峻別してしまう。はじめはそれでもいいのですが、自然科学がさらに発展すると、割り切れない問題がでてくるのです。

エンゲルスも例にだしていますが「生」と「死」という正反対に思われることも、じっくり考えると、そう簡単ではない。どこからが「生」なのか、どこからが「死」なのか?生命は生きながら、死へ向かっている「過程」としてとらえる必要がある。マルかバツかでは片付かないんですね。

 「どの生物体も、各瞬間に同一のものであってまた同一のものでない」(67ページ)


私たちのからだも新陳代謝をつねに行い、からだの一部はつねに新しいものに入れ替わっているのです。
ある一定の期間を経ると、すっかり別物になっているのですが、それでも同じ人間ですよよね。二見伸吾は二見伸吾のまま。違っていて同じ。

 「肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時にたがいに分離することのできないものであり、まったく対立しているにもかかわらず、相互に浸透しあっていることがわかる」(67ページ)



●ドイツ古典哲学 ヘーゲルの「弁証法」

「形而上学」的な見方は、自然科学の発展の途上で生まれ、あるところまで自然科学と二人三脚で進んできたのですが、自然科学のさらなる発展は「形而上学的な」見方と相容れなくなります。

「自然は永遠に一様な、たえず繰りかえされる循環運動をしているのではなくて、ほんとうの歴史を経過している」(68ページ)。自然史という言い方がありますが、まさにそれ。地球も歴史があり、大地も動けば、地も裂ける。「動かざること山のごとし」というけれど、山も長い歴史のなかでは動くんですね。生物も同じく,長い歴史のなかで進化してきました。人間はまさに歴史をつくる生き物です。

「自然的・歴史的・精神的世界の全体」を「ひとつの過程」として、すなわち、「不断の運動・変化・転形・発展のうちにあるものとして把握」し、叙述しようとすること。人類の歴史を、人類の発展過程としてとらえ、この過程がいろいろなわき道をとおりながらもしだいに段階を追ってすすんでいったあとをたどり、「あらゆる外見上をつらぬくこの発展過程の内的合法則性」をみつけだすこと。エンゲルスは「この課題を提起したこと」がヘーゲルの画期的な功績だといっています。

しかし,ヘーゲルの体系は「巨大な流産」でした。

ヘーゲルは一方で,「人類の歴史はひとつの発展過程」だととらえていましたが,他方では,そういう考え方,体系が「絶対的な真理」だと主張してしまったからです。つねに発展途上にあるのならば,「もうこれ以上明らかにすることはない」という「絶対的真理」にはたどり着かないのです。つねに次がある。

エンゲルスは言います。

「外的世界全体の体系的認識が世代から世代へと巨大な前進をとげうるということを,けっして排除するのではなく,むしろ反対にそれを含んでいる」(73ページ)



「素朴な弁証法」は形而上学的な見方に乗り越えられ,それが自然科学の発展と「ドイツ古典哲学」,とりわけヘーゲルによって乗り越えられたわけです。

 そしていまや,ヘーゲルの弁証法も乗り越えられるときが来た。それは何か?

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空想から科学へ(7) 体験的・古典の修行

●素朴な「弁証法」的見方

エンゲルスは、弁証法と形而上学という「二つの思考方法」について説明していますが、この叙述のしかたそのものが弁証法的です。えっ、まだ弁証法について何も説明していないのに「弁証法的」とは何ごとかって? 

失礼しました。そうでしたね。なかなか一言では言えないのですが、さしあたり「乗り越える」ものの見方だと言っておきましょう。

人類の思考方法がいかに限界を乗り越えて発展してきたのか。その大まかな歴史をエンゲルスは述べています。

まず、素朴な弁証法的見方です。

人類は文明を持ち始めた初期の段階で、ざっくりとしたかたちではあっても「すべてのものが運動し、変化し、生成し、消滅する」ことを理解していました。エンゲルスはヘラクレイトスの「万物は流転(るてん)する」(ビギナー版では「流動」になっていますが意味は同じ)を「古代ギリシア哲学の世界観」の代表としてあげています。

平家物語の「諸行無常」も同じ。いっさいのものは変転して同じではない。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」という方丈記の冒頭もそうです。

しかし、素朴な弁証法的「見方は、諸現象の全体の姿の一般的な性格を正しくとらえているとはいうものの、この全体の姿を構成している個々の事物を説明するには不十分」(63ページ)だったのです。

●個別科学の発展と「形而上学」

この限界を乗り越えるために必要なのは、個別科学の発展でした。

「自然をその個々の部分に分解すること、さまざまな自然過程や自然現象を一定の分類に分けること、生物体の内部をそのさまざまな解剖学的形態について研究すること、これが最近400年間に自然を認識するうえでなされた巨大な進歩の根本条件だった」(64ページ)



分かることは「分ける」ことであり、分類し整理すること。そうやって自然科学は発展してきたのですが、その発展は同時に否定的な側面を伴っていたのです。

「自然物や自然過程を個々ばらばらにして、大きな全体的連関の外でとらえるという習慣」を人々の間に生みだしました(「連関」(れんかん)とは「つながり」の難しい言い方です)。それが「形而上学」的なものの見方なのです。

形而上学的な見方は「運動しているものとしてではなく静止しているものとして、本質的に変化するものとしてではなく固定不変のものとして、生きているものとしてではなく死んだものとしてとらえる」のです。生きているものを殺して、ピンで固定するから標本になる。そうでなければ、物事の性質をとらえることができない。

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「国民の命と安全を守る」と言った安倍首相へ

子どもが、お年寄りが、若者が、大人たちが、必死に堪えながらも流す涙。

安倍首相、あなたは恥ずかしくないのか。

災害を知ってもゴルフに興じていたことを。

帰京して対策を講じたふりをしてすぐ別荘にもどったことを。

天皇が静養をとりやめたので再びあわてて帰京したことを。

集団的自衛権の閣議決定のさい、わずか10分の演説で「国民の命をまもる」と7回も言ったことを。

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空想から科学へ(6) 体験的・古典の修行

第2章 弁証法的なものの見方

●べんしょうほう・けいじじょうがく

第1章「空想的社会主義」と第3章「科学的社会主義」の間にはさまれた、第2章は、『空想から科学へ』の秘密を解くカギです。空想的な思想から科学的な思想へと社会主義を転回させた「軸」は何なのか? それは「弁証法的な、ものの見方・考え方」にあります。

いまから20年近く前、とある組合の学習会。

「今日は『べんしょうほう』について学習します」
「それは、PL法ってやつですか。きちんと物を作らないと弁償するという」
「いえいえ、それは『製造物責任法』」

そう答えて苦笑してしまいました。本当にあった話。
 
「弁証法」って世間ではほとんど使われない。哲学の専門用語です。おまけに法までついているので法律かと思ってしまう人もいるわけです。「弁証法」というのはDialektik(独)の訳語で、「対話」(Dialog英語はダイアローグdialogue)が根っこにある。法というのは法律ではなく、方法、法則の法なのです。

「理(ことわり・ロゴス)がそれ自身で、問答(対話)の力によって把握する」(プラトン『国家』岩波文庫、下巻90ページ)。


 対話(相談といってもいい)すると、自分一人では気づかなかったことが分かって理解が深まることがあるでしょう。これが弁証法のルーツ(根源)なんです。
 
 テキストを読んでみましょう。

 「一八世紀のフランス哲学とならんで、またそれにつづいて、近代のドイツ哲学が生まれ、それはヘーゲルによって完結されていた。近代のドイツ哲学の最大の功績は、思想の最高形式としての弁証法をふたたびとりあげたことである」(ビギナー版61ページ/古典選書版47ページ)。



「ふたたび」ということは、最初に取り上げた人々がいるということで、それがすぐ後に出てくる「古代ギリシャの哲学者たち」です。

 「(彼らは)みな生まれながらの、天性の弁証家であった。そして、彼らのうちのもっとも幅のひろい学識の持主であったアリストテレスは、すでに実際に弁証法的思考のもっとも根本的な諸形式を研究していた。これに反して近世哲学は、……いわゆる形而上学的な考え方にますますはまりこんでいった」



弁証法の反対の考え方が「形而上学」(けいじじょうがく)です。初めて学習する人はここで目をシロクロさせます。べんしょうほう?けいじじょうがく???。

 驚く必要はありません。形而上学という字は難しいのですが、意味は意外とかんたん。いろんな物のシロクロはっきりさせ、割り切ってしまおうという考え方です。「イエスかノーか。マルかバツか、はっきりしろ」という二者択一の考え方が形而上学なのです。

 注)さらに混乱させるようなのですが、天性の弁証家の代表として挙げられているアリストテレスの著作が『形而上学』(岩波文庫など)。一体どうなってるだと怒らないで下さいね。古代ギリシャでは、今日では「哲学」をあらわすフィロソフィア(英philosophy知を愛する)は「学問」一般を意味し,「形而上学」は哲学を意味していました。シロクロはっきり割り切ってしまう、ものの見方のレッテルとして「形而上学」を使ったのはヘーゲルで、マルクス、エンゲルスもヘーゲルの用法にならっています。


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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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