パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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第50回広島県解放運動無名戦士追悼合祀祭 主催者挨拶

3月15日、第50回広島県解放運動無名戦士追悼合祀祭が中区小網町、平和大通り緑地帯「解放運動無名戦士の碑」
前で行われ、参加しました。

碑の裏側には次のような碑文があります。

 この碑は解放運動のなかばで倒れた先輩諸兄姉を、とこしえに記念し、たたえるためのものです。

 この人びとの輝ける遺業をうけつぎ不屈の闘いを顕彰することは、日本の平和と独立、民主主義と人権を守る闘いを励まし、長く解放の礎えとなるであろうという日本国民救援会広島県本部の呼びかけにこたえ、広島県民各階層の絶大な賛同のもとに設置されたものであります。
 
 建設資金は、日本社会党広島県連合会、日本共産党広島県委員会、広島県労働組合会議、民主団体、県内外の労働者、農民、労働組合、県民有志の協力と募金によってなされ、3月18日パリ・コミューンの記念日に着工し、第34回統一メーデーの日に完成したものであります。
 
 1963年5月1日 解放無名戦士之碑建設実行委員会


今年の主催者挨拶は、日本国民救援会広島県本部副会長の本藤修さんが原稿なしでされたのですが、ぜひその中身を書いていただきたいとお願いしたら、すぐさま届きました。以下に掲載させていただきます。


2012年3月15日
第50回広島県解放運動無名戦士追悼合祀祭:主催者挨拶
               日本国民救援会広島県本部副会長  本藤 修

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 広島県解放運動無名戦士追悼合祀祭は、ことしで50回を迎えました。
新しい遺族の皆さんへのご案内を中心として、①追悼行事の名称(呼び名)と碑について、②追悼行事のあゆみと目的、③遺族をはじめとする参列者の皆さんへのよびかけ、という3点について述べて、主催者を代表しての挨拶といたします。

第1 追悼行事の名称と碑について

 1「解放運動」とは、わが国の進歩と革新をめざした、平和と民主主義、国民生活を守るための活動のことをいいます。今日では、このような運動のことを、一般的に「解放運動」と呼び交わすことはあまりなくなりましたが、歴史的な経過があって確定したものであり、そのままで呼称しているものです。

 2「解放運動無名戦士」とは、この意味での「解放運動」のたたかいの途上で亡くなられた人びとのことをさしています。
 通常、無名戦士とは、戦争においての戦闘行為で亡くなって、氏名を特定する認識票も失われてしまい、その名前もわからない兵士のことをいい、その意味での無名戦士の墓などは、世界の各国の軍隊によって建立されています。

 しかし、ここに合祀された方々は、もちろん名前も、その活動の経歴も明確にわかっています。では、なぜ「無名」なのか。それは、どのような有名人であろうとも、あるいはその時どきに引き受けた任務・部署がどのようなものであろうとも、死亡したら無名に返り、ともに「同志」「解放運動における無名の戦士」として肩を並べるという、この国の精神文化に根ざした考えからのものです。

 3 「凍てつく大地にあなたは種子となった」との美しい碑文を持つ、ここにある「広島県解放運動無名戦士之碑」は、1963 年に建立されました。その契機は、東京・青山にある、解放運動無名戦士墓(かいほううんどうむめいせんしのはか)にあります。この墓は、1935年に建立されたものですが、『女工哀史』(岩波文庫)などの作品で著名なプロレタリア作家である、細井和喜蔵の墓です。個人の墓を「無名戦士墓」としたのは、当時、細井が作品で描いた、葬られる墓もない「女工」を含め、有名・無名を問わず社会の進歩と革新の運動に貢献した人びとの「共同の安息地」となるようにとのねがいをこめたからでした。

 4 東京のものは「墓」といい、広島では「碑」と呼ぶ違いとは、「墓」の方はもともと、遺骨を埋葬することを予定したからです。広島の「碑」は、埋骨の施設ではなく銅版にその名を刻むことで顕彰することを目的としています。このため、東京で毎年3月18日におこなわれる追悼行事は「『合葬』追悼会」として定着しており、広島では「追悼『合祀』祭」と呼んでいるのです。ただ、現在では基本的にいずれも、氏名、死亡年月日、年齢および主な活動歴を、銅板の「プレート」に刻み、式典の終了後、「墓」「碑」に納められて、永久に保存されます。

第2 追悼行事のあゆみと目的

 1 東京の「無名戦士墓」が、「共同の安息地」として埋骨を予定したといっても、「治安維持法」による弾圧の嵐が吹き荒れたときには、鉄条網で立入りそのものが禁止され、墓への埋葬はおろか、掃除をして花を手向けることさえも弾圧の対象とされました。そういう弾圧が続くなかで「無名戦士墓」は忘れ去られてしまうような状態になったのです。

 2 第二次世界大戦が終わり、国民救援会が「無名戦士墓」の存在を知り、墓を所有・管理していた「細井和喜蔵遺志会」から墓を譲り受けました。そして、戦前の暗黒時代ではけっして許されることのなかった「解放運動」の四文字を書き加え、人類の解放のためにたたかった人びとを顕彰することを開始したのです。日本の進歩と革新、平和と民主主義を守るたたかいの途上で亡くなった人びとの功績を広く知らせ、たたえ、遺志を継ぐことを決意するとともに、ご遺族を励ますことを目的として、1948年以来、毎年欠かさずに追悼行事をおこなっています。
 「無名戦士」は、このような追悼行事によって語り継いでいかないと、忘れ去られてしまうからです。
  広島での追悼合祀祭は、これと連動しています。広島で合祀の推薦を受けて、決定された故人は、東京でも合葬されます。

 3 ことしの広島での合祀・合葬者は20名の方々で、広島での累計は、1029人となりました。全国では1116人がことし合葬される予定で、累計は3万9588人におよびます。

第3 東日本大震災・福島原発事故はこの国の時代を画した

 1 東日本大震災・福島原発事故は、新自由主義「構造改革」路線のツケによって、被害を拡大させるとともに、挫折しかけた新自由主義「構造改革」路線の「巻き返し」がやみくもにすすめられています。
 国民の被害を最小限にとどめる、被曝をさせないようにするということをしなかったばかりか、政・官・財、マスメディア、「御用学者」を総動員もして、膨大な人びとを被曝させました。
 国の基本構造が不安定となった焦りからの暴走ですが、中央政権のみならず、地方においても大阪の橋下市長などの言動も決して軽視はできません。

2 しかし、国民の諸運動は、これに負けているわけではなく、各分野で新たな反撃が繰り広げられています。いま、時代は、自公政権を押し倒したときからさらに情勢がすすみ、あらたなせめぎあいが始まっているのです。
 解放運動が、「凍てつく大地」の再来を許さず、さらなる反撃の運動を大きくしようとしているときに20人の同志、先達を喪ったことは痛恨の極みというほかありません。

第4 遺族をはじめとする参列者の皆さんへのよびかけ 

1 ご遺族および参列されたみなさまの胸中には、こうした、「未来の展望が見えてくる」に至った現代において、いまは亡き肉親や友人の、生前の活動などについて、さまざまな思い出が去来していることと存じます
 2 私たちは、合葬される方がたの遺志をしっかり受けついで、憲法改悪を許さず、日本の平和とくらし、人権と民主主義を守るたたかいを前進させるため奮闘することを、あらためて誓い合いたいと思います。
 3 なお、ご遺族の交流のための「いしずえ会」があります。親睦により、ふれあいながらの情報交換を通じて、互いを励ましあい、故人の遺志を受け継ぐ思いを深め合うための会です。紹介するとともに、ぜひ参加なさるようにお誘いします。入会については、閉会後に受付でお尋ねください。

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埼玉 国際女性デー集会 タイトルにいちゃもんつけられ中止

アーサー・ビナード講演、埼玉で中止。演題にいちゃもん。
主催者は何を考えているのか?せっかく賢くなるチャンスを奪ってどうするの?

「講師は詩人のアーサー・ビナードさん。講演の演題は「さいたさいたセシウムがさいた ~3・11後の安心をどうつくり出すか~」です。

確かに”さいたさいたセシウムがさいた”というフレーズはショッキングです。しかし、これにはアーサー・ビナードさんの「本来ならば喜ばしい春の訪れを台無しにしてしまった東京電力福島原子力発電所の事故。それほど大変なことをこの言葉で伝えたい」という意志が込められていました。実行委員会は検討の結果、この言葉に上記の副題と、「本来ならば喜ばしい春の訪れを台無しにしてしまった東京電力福島原子力発電所の事故。放射性物質の拡散でくらしに危険が迫っています。日々の生活の安全・安心を私たちの力で作り出していきましょう」というメッセージを添えてチラシを作成しました。

そうした努力が理解されず、実行委員会が中止を判断するという結果になってしまったことがとても残念です。


ブログ「労働組合ってなにするところ?」から引用

講演を聞いた上でその内容に抗議するのなら分かるが、タイトルだけで内容を決めつけ、しかもサブタイトルに「3・11後の安心をどうつくり出すか~」と書いてある。

いっけんふざけた感じのタイトルにこめられた奥深い意図を読み取る力が乏しすぎる。

また、自分たちの主張と違う集会をつぶそうと思ったら,こういうことをすればいいわけです。

埼玉のこの事例を嚆矢として反核・反原発集会つぶしが広がることを危惧しています。

日本国憲法第21条「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」

今回の中止は、憲法21条の改憲に等しい。

タモちゃん(田母神俊雄)の「ヒロシマの平和を疑う」は、中止されることなく行われているんですがねえ。

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20年後の未来

20年後の日本はいったいどうなっているのだろう、と思う。

千葉のともだちとのやりとりを紹介します。

▼まず、友人の書き込みから

ほんとにねぇ。
あと20年って、もしかしたら私も見ることになるかもよねぇ。
えーとぉ。
欲しいのは
まず再生可能エネルギーでしょ。

タイムマシンにも乗りたいなあ。
タイムマシンができたら
宇宙のことももっとわかるよねぇ、おもしろいだろうなあ。

あとねえ。
地球上に国境がなくなって、

どの民族も部族も自由に好きなところで暮らして
健康な大人は好きな仕事をして、

地域によって余剰生産物と足りないものがそれぞれだろうから
ぜんぶ共有して分け合う
う~~~ん。。。。


▼それに対するぼくの返事

(1)再生可能エネルギーは、超かんたんで、いますぐでも可能です。

  と同時にエネルギー浪費構造を変えることが必要ですね。

  これも十分可能。
  ①労働基準法でバカンスを規定し、夏は働かない=エアコンは不要ないし、非常に電力使用量が減る
  ②残業をゼロにし、一日の労働時間を6時間以内にする(日本の技術力を持ってすれば一日4時間労  働でも十分企業は儲かります)もちろん年収800万円以上。
  ③深夜労働も看護師や消防士など不可欠なもの意外は禁止する。
  ④そうすると24時間営業コンビニはいらない。

  1%以下の大企業の儲けV.S.99,9%の幸せを選ぶのか。この対立構造が分かればエネルギー問題は  3年以内に解決できるでしょう。

(2)ただし、原発事故被害は、そうはいかない。

 広島のビキニデー集会で講師の宇吹暁(さとる)先生がいみじくも「原発はなくすことができるが、被曝による障害はなくならない」といって、そりゃあそうだと。1945年8月6日から67年も経つのに被爆者(被曝者)が完治することがない。

 「ただちに健康に影響のない」フクシマヒバクシャが5年後、10年後、ガンや白血病を発症することになり、これをどう「解決」するのか。いまから十分に考えないといけない。


(3)タイムマシン

 できません。
 これがかりに何億年後でもできていたなら、3.11まえに事故が起きないようにしたでしょう。
 津波による被害にもあわないようにしたでしょう。

(4)「国境がなくなって…」というのはイマジンの世界だね。

  無くなるかどうかはわからないけど,ヨーロッパのように国境が低くなり、人とモノが自由に往き 来するようになるのは、21世紀の必然的な流れだとボクは考えています。

(5)少なくても日本が変わればこんなことができます。

 これも20年もまたなくても3年ぐらいでできちゃう。

 ●世界の子どもたちのために

 日本国憲法に基づく社会変革は、日本の政治と暮らしを変えるだけではありません。世界に大きな影響を与えることになります。

 いま、貧困と戦争とHIV・エイズという三重の危機が世界の子どもたちを襲っています。
 ユニセフの『世界子供白書』1)から紹介しましょう。

 まず貧困について。
 開発途上国では、子どもの3人に1人が十分な住宅環境になく、5人に1人が安全な水を手に入れられず、7人に1人が十分な保健サービスがうけられないのです。

 5歳未満児の死亡率は千人あたりで87人(2004年)。シエラレオネは283人。アンゴラは260人、ニジュールが259人、アフガニスタンが257人。生まれた子どもの3人に1人、4人に1人が5歳までに死んでしまうのです(日本の5歳未満児の死亡率は4人です)。

 ワクチンで予防可能な病気で死亡する5歳未満の子どもは毎年140万人。25万人から50万人の子どもがビタミンA不足で失明しています。わずかな金額で買える経口ビタミン剤があれば予防できるのにもかかわらず……。

そして戦争です。

 5歳未満児の死亡率2割以上の国、12カ国中、シエラネオレ、アンゴラ、アフガニスタン、リベリア、ソマリア、コンゴ民主共和国、ギニアビザウ、ルワンダ、チャドの9カ国で武力紛争がありました2)。

 1990年以降、紛争で死んだ人は360万人。その半数が子どもです。そして数十万の子どもが兵士として戦争の犠牲になっています。すでに戦争状態でない国でも、地雷や不発弾などによって手足を失ったり障害を負う子どもが後を絶ちません。

 さらにHIV・エイズが子どもたちを襲っています。HIV(Human Immunodeficiency Virus)とは「ヒト免疫不全ウイルス」を意味し、エイズ(AIDS)は「後天性免疫不全症候群」(Acquired Immunodeficiency Syndrome)のことです。HIVに感染し、それが発症したのがエイズなのです。
 15歳未満の子どもたちが1分に1人、エイズ関連の病気で命を失い、1分に1人、HIVの陽性になっています。15歳から24歳の若者が1分に4人HIVに感染。2003年だけで290万人がエイズで死亡しているのです。さらにエイズで親を失った18歳未満の子どもは2003年までで1500万人にものぼります。

 こういう状況をなくすべく、国連は次のような「ミレニアム開発目標」を決め、実現しようとしています。

①1日1ドル以下で生活する人口を半減させる。

②男女のすべての子どもたちが初等教育の全課程を修了できるようにする。

③初等・中等教育におけるジェンダーによる格差を2005年までに解消し、すべての教育レベルでのジェンダー格差を2015年までに解消する。

④5歳未満児の死亡率を3分の1に削減。

⑤妊産婦死亡率を4分の1まで削減する。

⑥HIV・エイズの蔓延を食い止め、減少させる。

⑦マラリアその他の疫病の発生を食い止め、減少させ始める。

⑧安全な飲料水および基本的な衛生設備に持続的にアクセスできない人口の割合を半減させる。

 そうすれば、「5億人が貧困から脱し、2億5000万人が飢餓を免れ、5歳の誕生日を超えて生きることはなかったはずの3000万人の子どもたちの命が失われずにすむ」のです1)。これらを実現するために必要なお金は400~700億ドルと、国連は試算しています。

 世界の軍事費はいったいいくらでしょうか。年間1兆ドル(約100兆円)。ケタが違うのです。2003年の日本の軍事費(国防費)は4兆8000億円(約500億ドル)。

 ミレニアム目標は、日本の軍事費分で、ほとんど実現できるのです。
日本が軍事費をなくして、その分を国連に拠出すれば、それだけでほぼ目標は達成可能。日本に続く国がでてくれば、よりいっそう実現は早くなります。

 アメリカは日本の財政的な支えなしに戦争を継続することはできません。アメリカがソ連と違って潰れないのは、日本の支えがあるからなのです。ですから、日本国民が憲法を選び直し、その選択に基づいて、アメリカの戦争に協力しないことを明確にすれば、アメリカも変わらざるを得ないでしょう。

 日本が、岩国や沖縄などの米軍の駐留経費の肩代わりをやめれば約6000億円。それだけあればアジアのHIV感染者(500万人)への援助が5年にわたってできます。もう少しプラスして8400億円にすれば、途上国の子どもすべてに基礎教育を受けさせることができます。

(『いろはにこんぺいとう』第7章「戦争のない地球へ」より)

 日本人がこの国を変える気があるかどうか、なんだよね。

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追悼 佐伯正一先生


ボクの親友は教師が大嫌いで「先生というのは最低の人間」だとまでいう。

 しかし、ボクは中学校か高校の教員になって生徒会の顧問になるのが夢であった。先生になりたかった。
 
 彼とボクの違いは素敵な教員に出会えたかどうか、なのだろう。
 中学、高校、大学、そして大学院と「この人のようになりたい」と思う先生にたくさん出会うことができた。そのことを幸せに思っている。

●佐伯先生との出会い

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(33年前、1978年の佐伯正一先生。レーニンに似ていた)

 そんな師匠の一人、伊勢原中学校のときの生徒会顧問だった佐伯正一先生が3月4日、亡くなった。まだ60代半ばである。原因は中皮腫(ちゅうひしゅ)。アスベスト(石綿)被害である。教員のアスベスト被害はめずらしいと思う。

 厚生労働省のホームページには中皮腫について「肺を取り囲む胸膜、肝臓や胃などの臓器を囲む腹膜、心臓及び大血管の起始部を覆う心膜等にできる悪性の腫瘍です。若い時期にアスベストを吸い込んだ方のほうが悪性中皮腫になりやすいことが知られています。潜伏期間は20~50年といわれています」とある。

 佐伯先生は父親を早くに亡くし、高校を卒業して横浜の日本海事検定協会で18歳から10年働いた。当時まだ日本では禁止されていなかったアスベスト。それがもうもうと立ちこめる倉庫のなかで仕事をしていたのだ。
 教員時代はいたって健康であった佐伯先生。約30年の潜伏期間をへて発症したのである。

先生は仕事をしながら國學院大學の二部に通って教員になり、伊勢原中学校に赴任した。ボクが入学するちょっと前、わが母校は荒れ(といってもその後の「荒れ」にくらべればそれはかわいいものだったのだが…)、集団万引きなどが起こり、「田舎の中学でなぜ?」というような記事が週刊誌(新潮か文春)に載ったりしたこともあった。

●生徒会改革のリーダーとして

 この事態に対して、わが伊勢原中学校の教師集団は、生徒の自主的な活動を伸ばすことによって子どもたちの荒れを克服しようとしたのだ。生徒会改革が始まり、生徒手帳に載っている「心得」などが改正され、「男子は坊主」「夏休みの外出は学生服着用のこと」などの規定がなくなった。

 文化祭の名称は「秋桜祭」。2年生のときのスローガンは「心で築こうぼくらの文化 この手でつかもう小さな何か」(1977年11月8日)、3年のときは「僕らの心、今こそ一つの輪になって創りあげよう秋桜祭」(1978年11月7日)。クラスや「有志」(3年の時は有志参加はなくなり、すべてクラス単位での参加となった)による特設野外ステージでの音楽演奏、合唱。演劇、展示など生徒の自主性が大いに尊重されるものとなった(ボクが中学校1年の時の文化祭は、一般生徒は体育館でただ文化部の演奏や演劇を見て聞くだけのお客さんだった)。

 ボクが3年だったときの、生徒会長はパンフレットに次のように書いている。

 「秋桜祭には大きな意義があると思います。それは“創造の精神”を育てることです。日常生活を基礎として、みんなで考え生み出していくこと。秋桜祭が単なるお祭りならば“まね”だけでも楽しくできますが、心に残るような何かを見い出すためには、“創り上げていくこと”つまりみんなで創造することが、大切なのだと思います。
 “僕らの心、今こそ一つの輪になって創り上げよう秋桜祭”このスローガンを合言葉に、みんなで協力してきたと思います。……秋桜祭に向けた情熱と、秋桜祭のなかで学んだことを、日常生活にひきついで、これからの生徒会活動を充実させていきましょう」

 この文章は先生が書いたり、手を入れたりしたものではない。すごいでしょう。

●組織と運動にはまったボク

 この生徒会改革のリーダーであり生徒会顧問が佐伯先生と大貫育男先生だった。

 ボクは生徒会本部役員になり、生徒会活動にどっぷりはまった。動かなかった組織が動き出すダイナミズム。毎日がわくわくの連続だったのだ(今にして思えば、結局この15歳の体験がボクの人生を決めたのだ)。

 よく生徒会室で本部役員の仲間や佐伯先生、大貫先生といろんな話をした。
 ボクは頭でっかちで、「○○であるべきなのに、そうなっていないじゃないか。これはおかしい」というような観念的な発言をよくふっかけていた。二人は「二見の言っている『理想』(かくあるべき)を実現するために問題点をさぐりだして、どう変えるのか」が大事なのだと具体的に話をしてくれたのだった(もう30年以上前のことだから具体的内容は覚えていないけれども…)。

●人生の師であり、憲法学習の扉を開いてくれた

 二人の話はいつも筋が通っていて、かっこよかった。ボクもこういう大人になりたい、先生になりたいとその頃、強く思ったのである(その後諸般の事情で教員にはならなかったのだが…)。

 大貫先生は1年の1学期だけボクの担任だった(生徒の急増でクラスが再編され、2学期からは別の担任に)。

 佐伯先生は、と言うと担任はおろか、授業を受けたことが一度もないのだ。
 
生徒会顧問と生徒会役員という繋がりだけ。あるとき、「伸吾ちゃんはこういうのが好きでしょう」と言って、平和委員会が復刻した文部省発行『あたらしい憲法のはなし』をくれたのだった。

 今も手元にあるが表紙はとれ、ボロボロ。ボクは現在「広島県9条の会ネットワーク」の事務局をしているが、その原点をつくってくれたのは佐伯先生だったのである。

勉強の先生というより「人生の師」なのである。

 2005年に「憲法語り部講座」を開講して講師をつとめた。それをもとに「学びの草紙憲法篇 いろはにこんぺいとう」という冊子を作り、佐伯先生にもお送りした。 

 たしか2010年だったと思うが、お宅にお邪魔したときに「この冊子の中身でもう一度憲法の授業をしてみたかった」(退職したあとだったから)と褒めてくれて、とてもうれしかった。

 会う機会は少なくなっていたが、中学校を卒業してから33年ずっと先生とボクは繋がっていた。

●口角泡を飛ばして熱く語りあいたかった

 アスベストの危険性を知りながら、企業の利益のために他国よりもずっと遅くまで禁止しなかった日本政府に佐伯先生は殺されたのだ(※)。

 アスベスト被害と東日本大震災での被災者放置は繋がっている。いのちより儲けなのだ。
 中皮腫が発症したらだいたい2年で亡くなるのだと本人から聞いてはいた。しかし、それを1年以上も超えて生きた。いつかこの日が来ることを予期しながらも「佐伯先生なら…」と思っていたのだった。
 
先月、蠣(カキ)を送ったら「いつもおいしい蠣をありがとう。今日9個食べた。明日も9個食べる」と弾んだ声で電話をもらった。とても元気そうで、それから1か月もしないうちに亡くなるなんて……。
佐伯先生、もっともっと生きて欲しかった。いつもそうであったように二人で口角泡を飛ばして、熱く語りあいたかった。

 先日、声が聞けたのがせめてもの救いだと自分に言い聞かせている。

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(最後に会った2011年7月1日 隣は奥さんの「のんちゃん」(典子さん)。


※空気中の大量のアスベストが人体に有害であることを指摘した論文はすでに1964年の時点で公開されている(水道水には通常、大量のアスベストが含まれているが無害であると言われている)。

 アスベストの製造物責任を世界で最初に追及されたのは、世界最大のアスベストメーカーであったアメリカのジョンズ・マンビル社である。1973年に製造者責任が認定されると、類似の訴訟が多発し、1985年までに3万件に達した。マンビル社自体も1981年の段階で被害者への補償金額が3,500万ドルを超えた。更に同社だけで2万件近い訴訟の対象となり、最終的な賠償金の総額が20億ドルに達することが推定できた。このため、同社は1982年に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)を申請し倒産した。

 このような動きを受け、世界的にアスベストの使用が削減・禁止される方向にある。

  日本では1975年9月に吹き付けアスベストの使用が禁止された。その後、労働安全衛生法において作業環境での濃度基準、大気汚染防止法で特定粉じんとして工場・事業場からの排出発基準を定めるとともに、廃棄物の処理及び清掃に関する法律で、飛散性の石綿の廃棄物を一般の産業廃棄物よりも厳重な管理が必要となる特別管理産業廃棄物に指定し、アスベストによる飛散防止や健康被害の予防を図っている。

 なお、2004年までには、石綿を1%以上含む製品の出荷が原則禁止され、2005年には、関係労働者の健康障害防止対策の充実を図るため、石綿障害予防規則が施行された。
(Wikipediaより)

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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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