パンとともにバラを

----人間らしく生きるために必要なのは、「パン」に象徴される物質的な豊かさと「バラ」に象徴されるゆとりと文化。------  この生きづらい社会を少しでもよくするためにみんなで考えたい。

 

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歴史に学び 病院の新しい未来を(14) 完

自信はなかったけれど

地区外の人が医療生協に入るだろうか、受診に来るだろうか。自信はなかったけれども、医療部会の指導にしたがって活動を始めました。すると、いろいろ知恵が出てきて、①組合員増やし、②出資金増やし、③健康班会、④活動家づくりという生協4課題の目標と到達も年ごとに大きくなっていったのです。それとともに経営の先もみえるようになりました。
 
「診てもらう」「診てあげます」という古い意識が邪魔をして、組合員と役職員が同じ目線で協同することがなかなかできなかったのですが、組合員が増え、出資金が増えるとともに、こうしたギャップも克服されていきました。それとともに、「やればできる」という自信が広がっていったのです。

誇り高きあゆみ

 こうして、広島中央保健生協は新しい歩みを始めました。その後も幾多の困難に直面し、それを組合員と職員が力を合わせて乗り越え、今日にいたっています。

 福島生協病院の院長であった田阪正利さんは著書『部落問題と原爆の町』のあとがきで「この町のあゆみは誇り高い」と書いています。

「新しい思想を持つ町」であり、「一層深刻になった貧困と差別からは、旧来の身分制支配の時代とは異質の、より近代的な批判精神が育っていったのではなかろうか、と思うようになった」

「このような新しい思想と近代的な批判精神は一体となり、素朴で開放的で合理的でこだわりのないこの町の作風となり、明治中後期にかけて定着した。この作風は時代とともに、一致協会、水平社、町民有志ほかの諸活動となって体現されていくが、戦後も太い地下水脈となって諸活動に栄養を与え続けているようである。……こうした一貫した流れがあることが、この町のあゆみを誇り高いものに感じさせるのであろう」

この町にある、福島生協病院、そして広島中央保健生協のあゆみもまた誇り高い、といえるのではないでしょうか。

初代院長の中本康雄さんに「福島生協病院、広島中央保健生協の歴史のエッセンスはなんでしょうか」とお尋ねしました。

 「それは、あきらめない心です。60年の歴史を通して、未解放部落であった福島町の姿はすっかり変わりました。診療所を始めたときには想像も出来なかったことです」

あきらめない心をもち、誇り高く歩みつづけること。それが今日の福島生協病院をつくり、未来の福島生協病院をつくってゆくのです。

    (第1部おわり)

《参考文献》
『広島中央保健生協50年誌』広島中央保健生協、2010年
ふくしま文庫編『地域民主主義を問いつづけて』部落問題研究所、1992年
田阪正利編『部落問題と原爆の町』部落問題研究所、2000年
石田寿美恵『麦飯花 白衣の半世紀』日生協医療部会、1992年
『民医連綱領・規約・歴史のはなし〈2005年改訂版〉』全日本民医連
『無差別・平等の医療をめざして』全日本民医連、2012年





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歴史に学び 病院の新しい未来を(13)

竣工間もない福島病院


待ち望んだ病院が完成

100メートル道路の北側、福島川を埋め立てた土地を広島市から借り受け、病院が建設されます。1959年1月5日に着工され、5月5日には竣工式を迎えました。建坪630平方メートル、木造モルタル平屋建て、鉄板葺き一棟。内科、外科、レントゲン室があり、43室、22ベッドの病院です。町民の出資550万円と広島市からの補助150万円、合計700万円で建設費をまかないました。

みんなの願いを実現した建設運動でしたが、問題点もありました。町の有力者の協力をえて市有地を借りること、建設資金を集めることに成功したものの、地域住民、なによりも組合員のなかに医療の受け手としての自覚が育たなかったのです。

また、建設委員会は病院建設後の運営について、生協理事会を解散し、新たに病院運営委員会をつくって病院を運営することを提案。生協立を「町立」へ転換しようというのです。論議のすえ、建設委員会を解散し、経営は生協理事会がすることになりました。「生協は組合員の手によって自主的な運営をする」という原則に対する理解が十分でなく、その原則を貫けなかったことが問題の要因です。

次の総会(1960年)まで、建設委員会から常任顧問、常任相談役を選出し、生協の常任理事会・理事会への出席を認めるという変則的な運営をすることで妥協がはかられました。

「医療生協とは何か」を問いながら

「産みの苦しみ」を経てつくられた福島生協病院にさらなる困難が立ちはだかります。それは経営上の苦しみです。診療所時代も経営の見通しが十分でなかったのに、病院になれば経営規模は格段に大きくなります。部落での医療活動の困難さに加えて慢性的な赤字に見舞われました。

こうした困難を打ち破るために、1965年頃から理事会を中心に生協理念の学習が始められます。医療生協とは、班会とは、組合員・出資金とは、など原点に帰った討議がすすめられました。

日生協医療部会(いまの医療福祉生協連)からは「医療生協は運動体であり事業体である。健康づくりを主体とした病院である。組合員を増やし組合員が運営の中心に座らなければいけない。一地区にこだわらず広島市全体を視野に入れた活動を考えたらどうか」という厳しい指摘がありました。


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歴史に学び 病院の新しい未来を(12)

職員総出で集金に

1947年の保険診療の占める割合は3割ほどでしたが、徐々に健保による医療が広がってゆきます。53年に、健康保険の適用業種の拡大、給付期間の延長、標準報酬の引き上げもされ、日雇い健保もできました。しかし、1955年に発足した福島診療所の経営は初めから困難に突き当たります。一部負担金や自費診療の多くは未収となり、盆暮れに職員総出で集金に回りました。

病院のできた年の大晦日、今年最後の追いこみと自らを励ましながら行く先々で「借りた覚えはない」「一昨年はだれも医者にかかってはおらん」「セデスを一包しかくれなんだ。あんなことならよその医者にかかった方がええ」「近頃看護婦が生意気になった」……。金は入らず、苦情ばかりで、いささかくさってしまう。ここでは主客転倒、卑屈なまでに頭を低うして、たまに20円、50円ともらえた時には嬉しくて急に足どりも軽くなる。あの晩も、もう少し、もう少しと北町から中町、南町へと歩き回った。(石田寿美恵『麦飯花 白衣の半世紀』日生協医療部会)

はな


土地も、金もないけれど

診療を始めてわずか1ヶ月で患者は60人を超すようになりました。嬉しい誤算です。みんな診療所に泊まり込みで、24時間、日曜も祭日もありません。そこで非常勤医師の応援をうけるようになり、看護婦も一人採用しました。

生協理事会は、顕微鏡一台しかない医療設備の整備、酔っぱらいなど反社会的患者対策、職員の補充、経営の安定化などに頭を悩ませました。その一方で、組合員の拡大、トラホーム無料治療。環境衛生、児童の衛生、保健婦活動、患者懇談会、スライド映写・映画による衛生思想の向上、組合員健診、ニュースの発行などについて論議。厳しい現実をいかに乗り越え、素晴らしい夢を実現するためにどうするのか、語り合いました。

時を同じくして、手術もでき入院もできる病院を望む声が日増しに大きくなっていきます。これらの声を受け、診療所設立からわずか半年で病院化をめざす動きが始まりました。57年、常任理事会は福島病院建設趣意書を作成。

「土地も、金も、何もないけれど、町のみなさんから本当に信頼される病院をつくるには、みんなの力を一つにし、衆知を集めて建設に当たるために、『福島病院建設委員会』をつくり、この建設委員会が病院の建設をおこなうようにしたいと考えています」

こうして、1958年2月、第1回福島病院建設委員会が開かれ、病院建設の準備が具体化されてゆくことになります。




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歴史に学び 病院の新しい未来を(11)

小さな総合診療所(2)

全日本民医連の結成と加盟

福島診療所ができる2年前、1953年6月に22県117院所が加盟する全日本民主医療機関連合会が結成されました。全日本民医連が結成されたことは、働く人びと、患者の立場につねに立とうとする医療機関の全国組織が確立したことを意味します。民医連運動は、医師をはじめ、医療従事者の主体的な医療変革の運動と住民・患者の運動を結びつけることが原点です。会長に選出された須田朱八郎さんは「全国民医連」誌第1号で次のように述べました。

「私達は、新しい医療活動の型を創造しているのだと私は確信しております。病める肺、病める腎臓だけを診るのではなくて病める患部を、その患者、患者の生活全体として診ること、医師、看護婦、事務、診療所全体の力が患者とその家族、否、もっと多くの同じように生活〔苦〕とたたかっている人達と合わせ、その合作した力で一人の患者を治療し、健康と、健康が支えられる生活を守ろうとしているのです。大衆のなかから生まれ出て大衆の中で育ち、発展してきた私達、全国の民主的病院、診療所のあり方は、こういうものだと思います」

福島診療所は民医連の掲げる医療のあり方、運動、精神に賛同し、1957年9月に加盟しました。

民医連第3回大会
(民医連第3回大会)

アルコール依存症とのたたかい

貧しさや差別によっていじけ、自暴自棄になった人たちが診療所を訪れます。自分も人も信じることができない。寂しさと甘えを酒と暴言、暴行によって紛らわす日々を送る人たち。

「この人たちの苦しみを分からなければならない」
「このような状況を生みだす社会を変えねばならない」

そう自らを叱咤するものの、眼前の患者は受診の順番は待たず、気に入らないと手をあげ、機材をひっくり返すといった狼藉(ろうぜき)をくり返します。

「〝大切な、大切な患者さん〟という気持をどうしたら持ちつづけることができるじゃろうか」
「一つぐらい、わがままの言える診療所があってもええじゃないか」
「いや、けじめを持たせるように患者にもっと厳しく指導せんと」
「よりよい医療はどうしたら実現するのだろうか」

職員は悩み、身も心も疲れ果てていました。

「もう辞めたい」

そんな職員に、ある女性は言いました。

「あんたらは出て行けばそれでいいが、私らはここで生きるしかない」

患者たちの振る舞いにとまどいながらも、生活と人生をまるごと預かる診療所の役割を受けとめ、医師・看護師・職員は頑張り続けたのです。

アイビー





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歴史に学び 病院の新しい未来を(10)

5.ちいさな総合診療所 (1)

目の色を変えて頑張っても

1955年8月16日、診療を開始します。中本康雄所長、山内慧事務長、林泰代看護師の三人体制です。

開所初日の患者さんは12人。日を追うごとに増え、一ヶ月後には一日60人になりました。午後からは徒歩で往診、しばらくして自転車になりました。不定期の往診依頼も多く、少しでも時間に遅れるときびしく叱られたといいます。夕方になると日雇い健保(日雇い労働者が対象となる健康保険)の患者さんがどっと押し寄せます。午後9時頃ようやく患者さんが切れたかと思うと、飛び込みの急患、酔っぱらい患者が訪れる。そんな毎日で休む暇もありません。医療機械は、顕微鏡と消毒器だけでした。

アジア風邪(※)の大流行した1957年当時の状況を石田寿美恵看護師(のち総師長)が次のように述べています。

「訪れる患者さんは、内科、外科、眼科、婦人科、小児科、耳鼻科と、まったく総合診療所でした。一日、二百数十人の患者は三畳の待合室にあふれ、往診も最高時には60人に達しました。看護師は、カルテだし、料金計算、金の受け渡しに調剤。まだ錠剤は出回っていませんから、天秤で何種類もの散剤を計って一包ずつ薬包紙で包みます。診察室との仕切り壁に空けられた四角い孔(あな)から送られるカルテ処方が重なり、ひっきりなしに督促されます。頬をほてらせ、目の色を変えて頑張っても追いつきません」

 ※アジア風邪…1957年4月に香港から流行が始まり、東南アジアなどを経て全世界で流行したインフルエンザ。日本でも約5700人が死亡した。

100メートル道路福島付近

患者と家族を見つめ、向き合う

中本医師は、診察の合間をぬって往診にでかけます。田阪正利医師も応援に広島大学から駆けつけました。一日60軒も訪問し、毎晩10時までかかります。

訪れると老人が一人きりで寝ています。

「誰も世話をする人がおらず、布団は汚れ、悪臭を放っていました。手、背中、腕、足などあちこちに褥瘡(じょくそう)ができていました。これまで医師が一人でこの老人の床ずれの処置をしていたのだと知り、と胸にせまりました」と石田看護師はいいます。

このような往診を通じて、医師・看護師は、患者と家族の状況を見つめ、これと向き合うようになっていきました。

50年代福島町02



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プロフィール

ふたみ伸吾

Author:ふたみ伸吾
二見伸吾
府中町議会議員(日本共産党)
広島県労働者学習協議会 講師
広島県九条の会ネットワーク 事務局員

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